希望など、つねに無いわけはなく
ブレイクタイムはあっという間に終わった。優秀者たちにとっては、ほんの一瞬で充分足りた。
映像化が成功して、その後の対応を寿仁亜は迅速に考える。今度こそ。
まず、この映像を公表するか否か。これは大きな、大きな問題だった。
通常であれば、事件解決の決め手となる映像は公表して然るべきである。社会公務員たちが事件解決により積極的に乗り出すためでももちろんあるし、事件に巻き込まれた人々の人権、尊厳、安全をしっかりと守るためでもある。
だが、今回の映像は普通ではない。いわば、通常ではないケースとなる――ここまで、被害者の尊厳が蹂躙されていては。
公表すること自体がむしろ、来栖春というひとりの人間の人権を侵害するに値した。いくら事件解決のためとはいえ、……ここまで屈辱的な扱いをされていればそれは、来栖春というひとりの人間を傷つける悪評の温床となりうる。
ここまで倫理が発達した現代でもなお、グレーゾーンをかいくぐってかいくぐって中傷という文化はなお生きている。クローズドネットがその筆頭だ。倫理と人工知能だけでは、なぜかひとがひとを傷つける行為を心をすべて制限することが難しく――むしろそれらすべてを一手に受けるかのように、……クローズドネットは、存在し続けている。
奴隷、現代であればありえないはずの存在、つまり人間でありながら人権がない者のように振る舞うひとりの男の映像は、……匿名の嗜虐心たちの、格好の餌食となるだろう。
……穿って見れば、それこそが犯人の狙いかもしれない。
それに加え、映像を公表しないことで、南美川家に公園内部の映像化が成功したと犯人たちに知らせないでいられる――いや、彼らであればどこかで必ず嗅ぎつけるであろうが、……すくなくともすこしでも、嗅ぎつけてくるまで時間を稼げるかもしれない。
公園内部にいますぐ突入できるのであれば、むろん話は別なのだ。しかし、社会公務員たちも物理学のチームも数学のチームも、異常な空間と化した公園内部に入る方法をいまなお見つけられていない。
映像を公表したら、もしかしたら公園内部に入るすべも見つかるのかもしれない。その可能性は充分に考えられたし、だからメリットだった。
他の専門家たちの専門性を軽んじるわけにはいかないのだ――専門外の人間には予想もつかない、理解もできない方法でその専門にかかわる問題を解決できる人間こそが、……専門家なのだから。
……しかし。
非常に難しい判断ではあったが、新時代情報大学の対策本部ではいまのところ映像の公表を控えることにした。
時間を稼げるかもしれないメリットと、公園内部に入れるかもしれないメリット。ふたつを天秤にかけたとき、それらのメリットは、現在のところどちらも等価だ――だとすれば、リスクがあるほうを避けたほうがよい。……映像を公表したら、春の尊厳が、それはすなわちほとんどイコール彼の人権が、侵されてしまうかもしれないのだから。
……ただし、寿仁亜たちは今後とも注意深く映像を見守る。
いや、見守るというのも、変な話で――要は監視しておくのだ。通常であれば、倫理ポルノと言っても過言ではないこの映像を、各々たとえ進んで見たくなどなくとも、大きな画面で映しておく。
……そして分析するのだ。考えるのだ。
この事件を、解決するために。
犠牲者はすでにあらわれている――しかし諦めるわけにはいかない。公園のなかにはまだまだ、人々が残されている。彼らは、行方不明としてNecoのデータベースに登録されている人々と一致していた。
だれかを、救えなかったことは。だれかを、救わない理由にはならないのだと――いままで直接的にだれかを救えなかった経験などない若きエリート依城寿仁亜は、以前であれば思い浮かべただけでつるつると滑っていくそんな言葉を、いま、実感をもってして考えていた。
そして、希望がないわけではない。
「ずいぶん妙な世界ですね」
「ねえ、ほんと。なんでしょう、水晶みたいなもので地面も木々もきらきら輝いて……?」
映像に視線を向け言葉を交わす理とてるるの横で、あえるも何度もうなずいている。
理は、ぎゅっと見えづらいものを見るかのように目を細めた。
「……なにか違和感があります、この映像。わからないが……物理法則が、通常のものとは違う……? もどかしい、もっと近くで見たい。物体の法則が歪んでいる……? 重力の値は? 物体の移動は、どのように? ああ、値が欲しい……」
「ねえねえ、理くん、演算なら、私たちできますよ。現実に即した演算なら私のほうが植木くんより得意かな?」
「……基礎的な演算くらいなら、僕にも」
「ありがたいです。自分、計算のほうはあんまりなので……理論と法則ばかりやっているもので」
「わかる、植木くんもそうだもんね」
「……大屋さんが応用数学分野の現象分野にしか興味がなさすぎるんだよ」
一見他愛もなさそうな会話を、和気あいあいと交わしながらも、若き専門家たちは各々デバイスを取り出してすぐに分析にかかっていた。
そうだ、……希望など、つねに無いわけはなく。
それは依城寿仁亜のすぐ近くに、つねにそばにある概念。
希望があるからこそ――王は、夢を見られる。より輝かしい世界を夢想し、……理想論だけでは終わらせない、理想ではないのだ、実際に、緻密にひとつひとつ現実化していく。
今回の理想というのはまさに――すべてが、円満に終わった世界。
そんなもの果たしてあるのか、と。自問自答したくなってしまう自分自身は自分らしくないとわかっていたから、寿仁亜は、……あえて微笑んだ、まるで将来有望な若者たちに満足しているだけの穏やかな年長者のように。
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