痛みで
寧寧々と可那利亜の教えてくれたところによれば。
おそらく、ほとんどそうであろうと思えるほどの可能性の高さで――春は、幸奈を連れて公園に足を運んだのだという。
「第三公立公園に行くと、春は毎日私のところに来て報告していた。……歩数ノルマ、というのをこなし始めてから、連続で毎日ね」
歩数ノルマ――そのことについても。
「私が、指示したのだよ……オリビタを投与する際には、人間未満となった身体でこちらの指定した歩数を毎日達成してもらうことが条件となっている」
おもに三つ、目的や理由があるのだという。
ひとつには、体力をつけるため。
オリビタの投与による身体の変形には、大変な体力の消耗を生じる。人間未満の身体では酷と思えるほどの運動量をこなしておいたほうが、体力の消耗が少なくて済む。
もうひとつには、そもそもこの程度の要求を呑めず、約束を守れない相手とは高柱第二研究所サイドが安心して取引できないため。
オリビタは非認可の薬だ。倫理的に、限りなくブラックに近いグレーでもある。
歩数ノルマをこなすというのは確かに人間未満の身体にとって負荷の大きなことではある、時間も要することではあるが、しかし現実的に無理なラインを提示しているわけでもない――限りなくブラックに近いグレーである部分を黙っていてくれということよりは、ずっとずっと、容易いことだ。
そして、さらにもうひとつには――この程度とは言いつつもそれなりにしんどい負荷の歩行ノルマをこなしてもらうことで、人間に戻したい人間未満と、依頼者の連携を強め、もっとずっと負荷の大きいオリビタの投与に少しでも耐えうるようにするため。
依頼者は大抵の場合、人権を保持している人間だ。人間未満が四つ足でそのままよちよちと研究所にやってきたなんてことは、これまでないし、今後もあまり想定できない。
オリビタの投与の際には依頼者の存在が鍵になる。あくまでも最後は依頼者の責任で、人間未満への薬の投与を頼むのだ。これはオリビタが認可されておらず、高柱第二研究所がオフィシャルで活動できていない以上、仕方のないことなのだという。抜け道でもある――依頼者みずからの責任で薬を投与してくれるからこそ、倫理的にぎりぎりグレーでもブラックではない範囲で、高柱第二研究所は依頼者たちにオリビタを渡すことができる。
それは法律上は、たとえばそのへんに落ちていた薬を拾って人間未満に与えてみたならあら不思議、人間に戻りましたという言い訳ができるらしいのだ。しかも、その人間未満は書類上ほんとうは人間未満には値しませんでした、というシナリオも準備してある。
あまりにもあっけない欺瞞と言えばそれまでだが――たしかに、Necoにも抜け道はある。電源を停めることができたりとか。だから、生物学や薬学、関連の法律にもきっとそういう抜け道があるということだろうと、寿仁亜は理解した。
例外は、なしにしているのだという。寧寧々と可那利亜が常日頃被っているリスクはただでさえ大きいのだ。細胞サンプルを集めたいというこちらの事情はあれど、人間未満を人間に戻したいと言う者たちの依頼を、際限なく、受けるわけにもいかない。どこかで線引きをしないと大火事になるし、線引きをした以上は、無闇に例外をつくって譲るわけにもいかない。
「……オリビタってね、痛いのよ。それはそれは、気が狂うほど。地獄の業火で焼かれているようだったとも、脳や内臓が生きたままひらかれて切られているようだったとも、身体の芯が溶けてかきまわされていたようだったとも――言葉は違えど、人間に戻れた元人間未満ちゃんたちは、あとでみんな言うの。声帯を焼かれたり抜かれたり加工されちゃっているケースが多いんだけど……声帯機能が残っている場合でも、おんなじことだと思うわ。しゃべれないのよ、本当に、投与中は、痛すぎて、まともに。……あたしの技術が追いつかなくて申し訳ない」
可那利亜は、拳をぎゅっと握った。
寿仁亜の理解したところによれば、オリビタというのはつまり、現在ごくごく少数ながら公に誤りだったと認められる人間未満に用いられている、痛みなく人間に戻れるが大変高価な薬の、ジェネリックだ――人間の身体に戻れるなんてそんな社会の根幹を揺るがすような薬、たしかに簡単に作れるとも、コピーできるとも思えない。
可那利亜はそんな非常に難易度の高いことを――いつも、やっているらしい。
ここまでの印象からすると、可那利亜は飄々としていて、他の専門家たちよりあまり専門家らしさが見えなかった。ただたしかに可那利亜は専門家なのだと――その深く鋭い専門性をいま、寿仁亜は初めて垣間見た思いだった。
寧寧々がフォローするかのように口を開く。
「オリビタでの治療は一週間から十日かかる。痛みに耐えられず中断する場合も多い。いったん中断してしまうと再投与は難しい。身体を変える際には細胞を溶かして再構成する――いったん溶かしたものは、そのまま溶かさなければならない。半端に溶かしておいてのちに溶かせる、というイージーなものでもないのだ」
「つまりは、……依頼者たちの望みは叶わなくなる、ということですね?」
「まあ、そういうことだな。それと、治療中に痛みでおかしくなってしまう者も多くてな。これまでも、人間の身体に戻れたところで精神面に後遺症を遺した者の例を、私たちは多く見てきたよ……身体だけが人間に戻っても、こんなの身体だけが人間だったほうがましだった、と」
「……痛いくらいでは壊れないって思うでしょう?」
可那利亜が、小さな笑顔を見せる。
「あたしも、正直なところわからないのよ。痛みだけで心まで壊してしまう、っていったいどういうことなのかしらね。あたしがいままで感じた身体的な痛みでいちばん大きかったのは、包丁で指の先を切ったときの鋭い痛み……でもすぐにNecoが細胞再生の絆創膏を提供してくれて、つけた途端に痛みは消えたから、味わう間もなく一瞬だった。台所の健康維持装置、あんなところにあってなんの役に立つのかしらって思っていたのだけれど、ああいうときに使うのね。勉強になったわ」
「……そうですね。痛みというのは……人間には決してあってはならない。人権侵害ですから。万一生じた場合は、人工知能が即座に取り除きますよね」
「そうよね。あたしもね、こんな身体だからいつも病院に通っているのだけど……」
それは。
奏屋だから、ということだろう。
美貌と引き換えに、崩れていく細胞。削られていく寿命。それらを管理するために奏屋の人間はある一定の人間から頻繁な病院通いを始めるのだという、それは、寿仁亜も聴いていた。
……見槻からも、聞いたことがある。
「あたしは奏屋でしょう」
サングラスを懐から出して、顔のところで持ち上げて、望遠鏡でも覗き込むかのように可那利亜は覗き込む。
どれだけ見えるのか。視力を、確かめているようにも見えた。
「最後には、身体が腐って死ぬことを知っている」
その言葉は、声色に重みはないけれど、重みがあった。
「大層、痛いらしいのよ……二十一世紀の遺伝子操作で出来た痛みは、二十二世紀が見えてきた現代になっても、解決できてない。奏屋の人間は痛みながら死ぬしかないのね。……だからそのとき初めてわかるのかなあ。あたしは、そう思いながらいつもオリビタの研究を進めているのよ。痛いと頭がおかしくなるって――最期の最期にわかるのかしら、って」
サングラスをしまい、くすり、と笑って可那利亜は肩をすくめた。隣にいる寧寧々のほうがむしろ沈痛そうな顔色をしているのが印象的で――寿仁亜は、……そうなんですね、とだけ言うことを選択した。声色で、最大限の気持ちが伝わるように配慮して。
……とかく。
痛みでおかしくなる、というのはたしかに、優秀者には想像のつきづらいところではある。
けれど、実際にそういう事例が出ている以上そう理解せざるを得ないのも、わかる。……痛みでの治療の中断、そして痛みでせっかく身体が人間に戻っても心がこわれてしまうのを回避するためにも、歩行ノルマを課しリスクを可那利亜と寧寧々たちなりに減らしているということだろうと――寿仁亜は、理解した。
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