春の勉強方法
銀次郎は教壇で、彼の何十枚にもわたる解答用紙を確認する。
すべてをじっくりと確認できたわけではなかったが、全体的にざっと目を通した限り、間違っていそうな箇所はなかった。それだけでも、――驚くべきことだった。
学生IDと名前も正確に記入されていることを、最後に確認する。
来栖春。
銀次郎はその名前を、そのときにはとくに興味もなく、見た。
『おい。確認した。試験は終わりだ』
銀次郎は教壇から彼に――来栖春という名の学生に話しかけた。
春はまたしても、言ったのか言わないのかわからないようなか細い返事をする。そのまま動きもしない。銀次郎は苛ついた声をぶつけた。
『荷物をまとめて出る準備をしろ』
荷物を静かにまとめて、席を立った。試験中の勢いは嘘だったんじゃないかと思うほど、スローペースで、魂の抜けたような動作だった。
全身だけでも真っ黒いのに、真っ黒なリュックサックをさらに背負う。やたらに重そうなリュックサックだった。
蝉の合唱は少しばかり落ち着き、少しずつ淡くなる光が真っ黒な彼を照らしている。その光から逃げるかのように――春はうつむき、早足で大講堂から出ていこうとした。
教壇の前を通り過ぎ、出口へと向かう。その背中に、銀次郎はまたしても声をぶつけた。
『おい』
『……はい』
やはりか細い返事とともに、しかし彼は振り返らなかった。
呼び止められて、後ろを向くことさえできねえのかよ――銀次郎はそう思いながら腕組みをした。彼がこちらを向かないことには、かまわず、問いかける。
『おまえ、どう勉強したんだ』
『……え、っと。あの』
『だあら、この暗記、あんだろ、これどうやって全部覚えてのかっつってんだよ』
『あの』
『あんだ』
『それは、その質問も、……試験、ですか』
『ああ?』
『え、っと、それに答えないと、その、……単位、くれませんか』
なにを言ってるんだこいつは――銀次郎はむしゃくしゃとした気持ちになったが、かといって、そこで話を終える気もない。ふざけたことを言うならばむしろ利用してやろう、と思った。
『ああ、そうだよ。これも試験だ。単位のための質問だ。――それとおまえこっち向け』
『……はい、……わかりました、……すみません』
春はようやくこちらを向いた――銀次郎に、向きなおった。
どんだけ単位がほしいんだよ、こいつ。
銀次郎は心のなかでそうつぶやいた。単位、単位とこだわるタイプにも一見思えないし、そもそもそういうタイプだったらもっと早くこの授業に合格しているはずだ――この学生の抱く矛盾のようなものが気になって、銀次郎は、ますますざわついた気持ちになった。
春はこちらを向いたはいいものの、立っても相変わらずうつむいて、自信なさげにたたずんでいる。ほんとうにこの学生がNecoプログラミングを暗記して答案用紙に書いたのか――この目でその過程を見ておきながら、そう、疑いたくなるほどだった。
『あらためて聞いてやる。おまえは、どう勉強したんだ』
『……どう、って』
『だあら。この課題の暗記だよ。どうやったっていうんだよ』
銀次郎は春の答案用紙をばしばしと片手で叩いた。春はやはり怯えたように、それでいて呆然としたように、叩かれる自分の答案用紙を見ていた。やたらに濁った瞳――銀次郎は思う。こいつは、目をぎらつかせたり、死んだ目をしたり、……忙しないやつだな、と。
と、思ったらその目をすこしだけ上げてちらりと銀次郎を見た――唐突な上目づかいに、銀次郎は一瞬、……ほんとうに一瞬だけ、ぎょっとした。
『……あの。試験であれば、答えますけれど』
『さっきから言ってんだろ。これは試験だよ。何度も言わせんな』
『……すみません。あの、どう勉強したかって、その、……ふつうに』
『ふつうって、あんだよ。それをもっと具体的に説明しろって意味で聞いてんだよ』
『すみません、でもほんとうに、……ふつうなんです』
『ペンで書いて覚えたのか』
『ペン、でも、書いて、覚えました。それがいちばん、基本だと思ったので……あとは、録音』
『録音か』
『プログラミングのサンプルを、読み上げソフトに読み込ませて。その音声ファイルを、保存して』
『いっつもいっつも聴いてたのかよ』
『いつも、……では、ないです。でも、……書けない時間には、いつも』
『ああ? あんだその、書けない時間っていうのはよ』
『……勉強をするにも、ペンで書く時間がある時間と、ない時間が、あって。ペンで書ける時間は、よかったんです……試験も、ペンで書けってことだったので、ただ、……書いただけです。できるかぎり』
『そりゃ自習時間にってことか』
『そうです。というか、その、家に帰ってから……』
『おまえ、もしかしてあれか、暇なのか、友達いないのか。授業が終わったら直帰するタイプかよ』
『……はい』
『友達とか、いなさそうだもんなあ』
『はい』
やたらに素直に認めやがる――銀次郎自身も似たタイプだなんてこと、……この学生はいま、思いもつかないのだろうなと思った。
『そんで? 書けねえ時間とやらは、ずっと音声でプログラミングを聴いてたのか』
『はい、あの、……通学の電車とか、そういうときには』
『まあよくある勉強法っちゃ勉強法だな。そんだけかよ』
『……え、あの』
『おまえのやってた勉強法はそれだけかって訊いてんだよ』
筆記練習をする、音声ファイルを活用する――どちらも、よくある勉強方法だ。スタンダードといってもいい。
まあ、もっとも、プログラミング言語を覚えるのに音声ファイルというのは、あまり聞かない話ではあるが――筆記をできないときの代わり、文字を思い起こすための音声、ということだったら、それなりに納得はできる。あくまでも筆記ありき、ということならば。
しかし、ただ、それだけのことで、……あの量のNecoプログラムを覚えたなど、納得できなかった。もっと、なにか、……なにかが、あると思った。
『……えっと、あの。あとは、その、……変、かもしれないんですけど』
『おまえが変かどうかなんて知らねえよ。とにかく言ってみろ』
『音読、しました』
『音読だと? あんだよ、そりゃ、筆記できない時間にか』
『……筆記できる時間にも、やりました。筆記とおなじくらい、やりました』
Necoプログラミングを、音読?
しかも、筆記とおなじくらいの時間を費やした?
音読。
まあ、考えてみれば、ありえない勉強方法ではないのかもしれない。たとえばローカル言語を学習するときには音読というのはスタンダードな勉強法だ。だが、それをプログラミング言語に適用するかというと――とても、スタンダードとは、いえないと思った。
そもそもコミュニケーションをおもな目的としたローカル言語と異なり、プログラミング言語というのはあくまで人工知能を動かすためのものだ。音声ベースで使用することを前提としていない。プログラミング画面で、視覚情報として動かすものなのだから――必然的にその学習方法もビジュアルを重視したものになるはずだ。
聴覚をそこまで活用するだなんて、……正直、発想外だった。それはあまりにも非効率で不合理ゆえに思考に浮かぶことさえなかっただけかもしれないが――。
『音読って、なんのために、やったんだよ』
『違和感を、覚えることができるように、なるために』
『違和感?』
『課題のプログラムは、たくさんありましたから』
春は――銀次郎を、上目づかいで見ていた。
『ただ筆記するだけでは、すべてを、試験日までには、覚えられないって、……少しやって、思いました』
『少しって、具体的にはどんだけやったんだよ』
『三十時間、くらいでしょうか』
『おまえ、三十時間も勉強したのかよ』
『いえ、その、それは、……最初の、三日目のことでしたから』
『はあ?』
『最初から、一日、最低でも、十時間は』
春のふたつの瞳が、……銀次郎を、奇妙に捉えている。
『試験直前は、一日、その、十八時間くらい、やってましたから……』
『――なに言ってんだおまえ』
『すみませんほんとうに僕は頭が悪いんです』
言葉での謝罪とは裏腹に、言葉の雰囲気はどこか、愉悦じみた響きを帯びた。
それは、媚びているのか。道化を演じているのか。それとも――。
『ほんとうに頭が悪いので、最低でもそのくらいやらないと人並みになれないんです』
急に、滑らかにしゃべった春を――銀次郎は気がつけば未知のものを見るように、目を細めて、見ていた。
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