試験、終了

 優秀者専用食堂は、銀次郎の希望したような醤油ラーメンを用意することに成功した。

 さっさと食べて、十二時四十分。大講堂に戻る。

 素子が教壇の傍らに礼儀正しく立って、試験監督を続けていた。

 あの学生は、まだ――書き続けている。


 銀次郎は素子にアイコンタクトを送る。素子は微笑みを浮かべて恭しく頷き、そのまま大講堂から出ていく。これも打ち合わせ通りだ。

 これで、彼と大講堂でふたりだけということになる。

 蝉は、鳴き続けている。


 午前とおなじように。窓際、大講堂の前方の壁にもたれかかり、銀次郎は腕組みをして彼を見ていた。


 時間が経つ。一時になり、二時になる。心なしか蝉の鳴き声がどんどんうるさくなるような気がする。蝉はいつでもうるさい気がしていた。時間帯によって違うだなんてあまり考えなかった。でもいまはその違いがクリアにわかった。その間、何度かチャイムが鳴った。やはり水の向こうのもののように、遠い国のもののように聞こえた。


 三時になる。あと一時間で、試験時間はお終いだ。彼は試験開始時と変わらないように思える勢いと静けさで、アナログペンを動かし続けている。

 どこまで書いてやがるのか――単なるハッタリじゃねえだろうな。気にはなったが、机間巡視はしなかった。話しかけた日のあの反応を思うと、少しでも自分が近づいたら、あの学生は止まってしまうかもしれないと思った。

 試験期間で三時を過ぎると、帰宅する学生も増えてくる時間帯だ。クレッシェンドで騒がしくなる大学のざわめきは、でもやはり水の向こうのもの、遠い国のもので、膜を通したもののようにうるさくなかった。うるさいのは、ひたすらに蝉だ。


 謎の緊張感が襲う。意味不明だと、自分で思った。


 すこしずつ、夕暮れがはじまる。真夏の三時台はぴっかりと明るいが、四時に近づくにつれ、夕暮れの粒が混ざってくる時間帯でもある。目には見えないが、なぜかそこにある夕暮れの気配。どこか遠くで鳴く鳥の声、天然鳥か機械鳥かは、わかったものではないが。

 日差しも夕暮れらしい柔らかさを帯びてくる。

 午前の光も、真昼の光も、午後の光も夕暮れの混ざった光も浴びて――彼は、変わらずアナログペンを動かし続けていたのだ。


 三時十分。二十分。三十分。彼の筆記は止まらない。銀次郎はわけもわからず苛々としてくる。四十分。まだだ。四十五分。あと十五分、試験終了時刻を過ぎればなにがなんでも試験を終了にしなければならない。五十分。銀次郎は彼を睨みつける。五十五分。まだ、止まらない。なんなんだよ、あいつはよ――銀次郎がそう思った五十八分、彼の手の動きは、ぴたりと止まった。

 五十九分。彼は見直しをする素振りもなく、ペンを持ったまま固まっている。

 五十九分と二十秒。最初のペーパーに戻って、名前と学生IDのみ見直しをしたようだった。五十秒。アナログペンをそっと置く。



 そして、四時ぴったり――銀次郎の設定したベルサウンドのタイマー音が、リリリリリ、と鳴り響いた。Necoプログラミング入門の授業でこの音を聞いたのは、……自分でも、はじめてだった。



『……おーし。じゃあまあ、回収するぞ』



 新時代情報大学の最終試験の決まりとして。途中退室の学生の試験用紙は学生がみずから教壇に持ってくることになっているが、試験終了時の試験用紙の回収は試験監督を行った者が巡回して行うことになっている。

 もっとも、この決まりは実際あまり適用されることはない――アナログベースで試験をするケースは今時かなりのレアで、よほどの特殊がある場合のみだ。銀次郎のNecoプログラミング入門はそのレアなケースに該当する。新時代情報大学でもあまり見ないし、銀次郎も実際他の担当授業はデジタルベースで行っている。回収も採点も、アナログベースほど面倒なものはない。

 だからこそ、だからこそだ、このNecoプログラミング入門の授業をアナログベースにしているというのに。

 まさか、最後まで、やりきる学生がいるとは――ほんとうに、想定外だった。


 アナログベースでの回収はそういうわけで慣れてはいない。ただ最後まで残ったのが一人であったし、要は近づいてペーパーを受け取ればいいのだった。

 彼は事前に該当者に向けて大学が回しておいたはずのアナログベースでの試験の注意事項をきちんと読んだのだろう、試験後はアナログペンにもペーパーにも一切触れずに、丁寧に両手を膝の上に揃えて置いていた。アナログペンであればボールペンタイプでもシャーペンタイプでも何でもよいと指示しておいたが、彼はボールペンタイプを使用したようだった。消しゴムのカスも、修正テープや修正液などの修正ツールの存在もなし――おそらくは一度も消すことなく、書き続けていたのだろう。

 銀次郎は机の上に置かれたペーパーを回収する。緊張が高まっていた。どうしてだかは相変わらずわからない。ただ、ここまでやっといて適当なことばっか書いてたんなら許さねえぞこいつ――そう思い、回収した瞬間、一枚目のペーパーにさっと目を通した。



 ……意味が、ぶわっと頭に届いた。



 てっきり、弱々しい、ひょろひょろとした薄い字で書いてくるかと思ったら、意外なことにその筆圧は強いようだった。ただし文字ひとつひとつの大きさはとても小さい。ひと文字ひと文字、石板に刻みつけるかのように書いている。すくなくとも一枚目の時点においてだが、やはり消しゴムや修正ツールで直した形跡もない。

 やたらと四角く感じる文字だ。もともとこういう文字なのだろうかとも思ったが、でも違う気がした。これは、デジタルベースに似ている文字だ。

 アナログベースで書いているのに、まるでプログラミング画面を見ているかのようだった。



 だから意味が頭に届くのだった。このNecoプログラミング。なにを言って、なにを伝えて、なにを指示して、なにをNecoにやってもらうのか。そのことこそが、Necoの基本であり、真髄であり、すべてだ。

 自分でサンプルとして出しておいた箇所だが、やはりああ美しい――銀次郎は、シンプルにそう思った。Necoプログラミングは整っていて、無駄がなく、目的がはっきりしている。現実の、無意味なコミュニケーションとは違う。

 だから俺はNecoが好きなんだ。

 若いころからずっと、一貫して抱いている気持ちを――銀次郎はいま、この学生の答案を見ながら、なぜか感じていた。



 普通に、読める。

 Necoプログラミングとして。それも、自分の好きなあのプログラミングとして。

 つまりそれは間違いがないことを意味した。

 彼が不正を行っていないことは、自分自身と、自分と同等に信用できる素子の目で確認している。それに万一不正があれば、大学のNecoシステムがすぐに知らせてくれるのだ。不正などしようがない。

 だから、彼が暗記をしたのであろうということは、もうわかっている。

 彼の暗記して書いたNecoプログラミングは――間違っていない、ということだ。すくなくとも、……いちばん最初の一枚目の時点では、だが。


 だが。

 一枚目の時点だけに限定しても、クリアした学生は――いままで、ただひとりとしていなかった。

 だってそうだ。そのはずだ。

 非効率で、不合理だ。無駄なはずなんだ。アナログベースでの暗記だなんて。だから優秀な学生ほど、こんな暗記などはしない。しないはずなのに。



 ……なにかが、ぐらっとしたように感じた。

 見下ろせば、怯えたようにうつむき続ける長い髪の頭。



『おい、ちょっと待ってろよ。確認するからよ、席を立たねえでそこにいろ。わかったな』



 銀次郎はそう言うと、彼の答案用紙をすべて抱えて教壇に戻り、座った。

 ……はい、と彼のか細い声がした気がしたが、返事をしたのかしていないのか、そんな弱すぎる反応に返して反応を返す気は、さらさら、なかった。

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