すべて、すべてのことを思う
……すべて、すべてのことを、思う。
なんどでも。思う。
僕が人間であったこと。僕が人間ではなかったこと。
そのことを、わかっていなかった高校二年生の春までのこと。そのことを、嫌でも、骨の髄まで、教え込まれた、高校二年生の春からのこと。
南美川さんのこと、僕自身のこと。
……ゆるしを乞うのはいつも彼女に対してだった。
そうさ。彼女が教えてくれた。
あんたは人間じゃないのに人間のふりをしてる、って。気づかせてくれた。
だから僕は彼女に感謝しなければいけないのだろう。
もうあとは人間未満に処分されるだけの、ひきこもりの、ふとんのなかで。
ありがとう、ありがとうと。
……気がつけば泣いていることも、よくあった。それにしても、どうして。泣く必要が、あるのかな。これでいい、はずなのに。あのまま人間としてのうのうと生きていけば、社会のリソースをもっと食って、僕はもっと、迷惑だったはずだから。
ああ嬉し涙かな。それなら納得だ。
ありがとう。ありがとうございます。
ごめんなさい。ごめんなさい。
……それらふたつはまったく相反するものだと、人間のころは思っていたのに。どうしてだろう、こうなってみればこの一見意味の反対な言葉を言うときの気持ちは、変に甘くて、とろっとしていて、でもやっぱりほんとうのところは、身体にも心にも激痛をもたらす、ただそれだけで、……それだけの感情を、もたらす、ってわかるんだ。
……とろん、としているという意味では。
どっちも、おなじだ。
まるで熱にうかされているみたいだ。
高熱だ。
ありがとう。ありがとう、ございます。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
……そう言っているときだけは自分の感情の意味不明な動きが、……暴れまわる動きが、すこしは、ましになる気がしたんだ。
すべて、すべてのことを。
……僕はすべてのことだけを、いつもひとりで、醜く、情けなく、……この世でいちばんどうしようもない存在として、思っていたんだ。
そうして季節もなにもなかった。ただそこには過ぎ去る時間だけはあったのだろう。やがて僕の髪も髭も体毛もなにもかもが伸び、これはこれで人間的ではなくなった。でも時間の経過が自分でわかったのはそれくらいだ。
時もなかったのかもしれない。そこは永遠の牢獄だった。あるいは迷宮といってもいい。僕の心からはもう永遠に出られずに、永遠にここをさまよう。さまよい続ける。
おまえは人間じゃないとだれかに指さしてもらえるまで続く。
そうでなければ命を終えるときまで。ああ。――早く、死にたいな。
人間としてでも生物としてでも。どっちでもいいよ。……もうおなじことだ。だって、ひとでもないのにひとのふりをして生きてきたことは、……そうでもしないと、清算できないだろう。
願わくは間違っても来世なんかありませんように天国なんかありませんように。無になりたい僕はこのまま消えてなくなりたいだけなんだ。存在したという事実すら消してくれ、不可能だろうけれどもさ。いやでもできるんじゃないのか、現代のすばらしい技術をもってすれば。消してくれよ、なあ早く消してくれよ。
それができないんだったら僕の心を消してくれるのでもいいよ。もうこの永遠の苦しみから解放してくれ。意識を消してくれ。ああそっちだったら比較的手っ取り早く現代の技術で可能なんじゃないか。
現代っていいよなあ。技術が発達していて、僕ひとりのことなんか簡単に消去できるんだからさ。いやでも待てよ。現代のそういうすばらしい技術はああそうか、……人間に向けたものであって、僕に対しては、そんなものは、いっさい、……いっさい、なにも。
……どうして、世界はこんなふうにつくられている?
なあ。現代って、技術って、すばらしいものなんだろう。旧時代と違って、いろんなことができるんだろう。人間という存在が、すごくたいせつにされて、リソースもすごく豊富で、福祉がすごく発達して、人間でいるかぎりは豊かな生活は保障され、がんばればがんばるほど報われる。そんな世界だ、社会なんだ。それは人間と人間ではない存在を明確に区別するようになったからだ、だからあなたたちはこんなにもすばらしい環境で勉強できるといままで誰も彼もが言った、そう、教師や大人たちみんな、みんなだ。
そうだなあと僕だって目を輝かせながらそういう話を聞いていたよ、だってあのころには自分自身が人間なんだって愚かにもすっかり思い込んでいたんだから。
すばらしい社会なんだ、って。
旧時代のあらゆる問題を、解決してしまった……ひとりの天才によって。そして彼の、たゆまぬ努力によって。世界すら、変わった。リソースの問題も福祉の問題も格差の問題も努力の報われないという問題もすべてすべて、彼とそして彼に続く優秀なひとびとが解決した。
幸せな時代のはずなんだ。
人間は……みな。
なあ、なあ。そんなすばらしい世界で、でも、……僕は。
どうして。……どうして。
思考の矛先は、このすばらしい社会をつくりあげた、彼に向く。
……歴史なんかたいして教えないくせに、彼の生涯と栄光だけは、大人たちはみな熱心に語る。そんな、天才、偉人、革命家、すごい、すばらしい、彼のおかげだ、彼がいたからこそだ、とにかくとにかく、どんな賛辞を尽くしても言い切れないのだという、そしていまでもこの社会のシステムと成って人間すべてを守り続けてくれているのだという――高柱猫に向かって、……僕の思考の矛先は、向く。
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