世界で、いちばん最低な存在

 ……僕は、その日、ドアの外に出ていくことはなかった。

 そして、その日から。

 僕の、長い、長い長い長い――無限に明けない夜とも思えた、ひきこもりの毎日が始まる。


 壊れた、としか言いようがない。自分でも。


 部屋の電子シャッターはすべて閉めた。だから穴ぐらみたいにあるいは監獄みたいに、外の光やようすが部屋に入ってくることは、なかった。

 僕のおもな生きる場所は、ベッドのなかだ。部屋の外はもちろんのこと、部屋のなかでも、ベッド以外の場所にいることは皆無だった。机の前に座ることもない。立ち上がることもない。風呂になんか入らない。……ひどいときには、排泄だってふとんのなかで垂れ流していたくらいなのだから。

 食事はろくに食べなかった。食べたいとも思わなかった。ただときおり強烈な飢餓感が襲ってきた。空腹というレベルではない。とにかく飢え、渇いていた。そういうときにも起き上がるのに何時間、いやもしかしたら何日、かかっていたのか。このまま死んでしまえばいいと思っていつも放っておいたが、……いつも、結果的には、電子キーをかけっぱなしの部屋の下からそっと差し出されている、おそらくは母さんが用意してくれているクッキータイプの非常万能食を、手にとり、袋を開けるのももどかしく引きちぎり、量だけはあるそれらを咀嚼して、胃に流し込むのだった。けっきょくは飢餓に負ける自分を卑しいと思った。ほんらい死なねばならない存在なのに。

 制服はすぐに汚れた。服装なんかは構わなかったけれど、やがて痒くなってきたので、僕はそれらすべてを脱ぎ捨てた。……次に自分でまともな衣服を着ることができたのは、もうだいぶ、気力を取り戻したあとのことだ。


 毎日毎日そうして過ごした。

 多くの時間、眠り、しかしずっと眠っているというわけにもいかないのだから人間の身体というのは不便なものだ。眠れない時間はずっと、天井を眺めていた。白く、ちょっとつぶつぶのある、それらの模様を画像で暗記できるくらい、ずっとずっと、僕は天井を眺めていた。……意味もなく。価値なんてもちろん、なく。


 ずっと眠っていられたらいいのにと切に願った。

 意識があるというだけで――こんなにもつらい。……つらい。自分の存在価値を思い知らされる。意味なんてない、むしろマイナスなんだってことを。

 高校でされたことを思い出す。

 それだけで、僕の心は身体は、僕のものではないみたいに暴れたり叫んだりめちゃくちゃになったりとにかく自分を傷つけはじめて――。



 ……端的に言って、地獄だった。



 まっしろに、ひろがる。毎日が。まっしろに、まっしろが、ひろがるのだ。僕にはなんにもない。もう脱けがらだ。人間はやめた。文字通りの、廃人だ。なんにもできない。生まれたての赤ちゃんよりひどい。自分で自分のことがなにもできない、かといって未来もない、愛想もない、可能性なんかましてやすべて潰えた。粗大ゴミよりもひどい。……僕なんかすぐに処分してしまえればいいのにな。

 ああ、やっぱり、失敗だった、よな。

 母さんにいくら止められたって、高校生のころの、まだ少しは人間でいられた時代に、あの自分が劣等だという理由での自分の廃棄処分を最後までやり通して、あのまま、……自分が劣等だということを自覚して死ぬことにしたなけなしの優秀性を評価したことによる、社会評価ポイントをわずかでも家族に残して、……死んでしまうべきだったよな……。



 死にたい、死にたい。

 いますぐにも。

 こんな地獄は抜け出したい。

 でも、もうそんなことは不可能なんだろうなって、思う。

 けど。

 つらい。

 つらいんだよなあ、これが。


 僕は。僕は。……いつからこうなった。

 いつから、こんな存在になってしまった?

 ただ存在するだけで醜く劣等で死ぬべきで迷惑で――それでいてみずから死ぬことさえできないこんな存在に、いつから、いつから……僕は。


 ……むかしは人間だった気がする。

 いいやそれは、思い上がりだったのかもしれないな。

 成り下がった、……だなんて思うことがそもそももしかしたら、思い上がりで。

 もともと僕はこういう存在だったのかもしれない。それが、勘違いしていただけなのかもしれない。家族や、学校や、社会で。人間として、扱われたから。


 ……ああ。ごめんなさい。

 こうやって、僕は食いつぶす。だいじな資源を。感情を。

 粗大ゴミより、やっぱりひどいよな――息をひとつするだけで、この世の意味や価値を汚して、それでいて、……僕は自分の呼吸を自分で止めることすらできないのだから。

 しようと、しないのだから。



 世界で、いちばん最低な存在。



 はやく、迎えがくるといいと思った。

 それは、死でも、いいけれど。

 ……でも僕が、家族に不当にかばわれて、人権をもったまま、不当に死ぬなんてことは、間違ったことだろうから。

 ……こんな生活を続けるうちに、当たり前のこととして、施設かなにかの公務員がやってくると、いいな。いつかは、かならずくるだろうな。だって、僕は、……こんなにもどうしようもない、劣等者なんだから、さ。


 そうすれば僕は社会も認める劣等者になれる。

 人権を奪われて……手足ももがれて……人間未満の、存在に。


 人間未満。

 あんなに、なりたくなかった存在。……でも、考えは、完全に変わった。


 ……そっちのほうが、まだ、いいよな。

 だって、そうすれば――この地獄からは抜けだせるだろう?



 ……なんでもいい。なんでもいいんだ、もう。

 死でも、ほかの地獄でも。

 いいよ、いいよ、なんでもいいから。




 僕をこの地獄から抜け出させてくれ。

 毎日、ベッドの上で仰向けになるだけで。生きながらにしてただの脱けがらになってしまった、僕を。




 なんでも、いいから。助けてくれよ――心はいつでも見せてくるんだ、……あんたは人間じゃないって、それなのに人間としてふるまっているって、だから、……だからこそ、あんなにも受けてしまった高校時代の正当なおこないとしてのいじめを、見せて、……感じさせてきて、それが何回も何回も何十回も何百回も、もう彼方数えきれないほど、僕を、……僕を、焼き続けるんだ――たすけて。たすけて。――ごめんなさいごめんなさい、おこがましいおこがましい、でも、でも、でもでもでも……たすけてたすけてたすけてよ、



「……ごめんなさい」



 だから。お願い、します。たすけて。……ゆるして。もう、いやなんです。おねがいです。……おねがいです。……おねがいします……。

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