パニック
メニューとやらについて理解した瞬間、全身に、電流のような感情が走った。
なんだ。それは。それでは。……生き地獄なんじゃ、ないのか。
社会的に劣等者になる、ならない以前に――そんなの、僕は、それでは、――卒業までに、人権制限どころか、ありとあらゆる――人間未満を味わうことになるんじゃ、ないか。
人間でなくなってしまう。僕は。そんなものを受け入れてしまったら。きっと――。
「――いやだっ」
僕は言うなり、立ち上がって、教室の後ろのドアから出た。もつれるような動きで、それでも。行くあてがあるわけではない。でも、でも、とにかく逃げようと思った。駄目だ。ここは、危険地帯だ。中退できない、なんて生ぬるいことを言っている場合ではなかった。逃げるんだ。とにかく。
たぶん南美川幸奈は本気でやる。仲間たちも嬉しがって手伝う。それは、この二日間で、いやってほどわかったじゃないか。
ああ。まさか。この二日間でおこなわれたことは――まだそんなほんの、序の口だったなんて!
走る、走る走る走る。廊下を歩くひとたちがみんな頭のおかしいものを見る目で見てくる。それは、そうだろう。僕はいま、全裸で、走っているのだ。変態というわけでも、……ないのに。
きゃあっと叫んで顔を覆うひともいた、指さしてゲラゲラ笑うひともいた。
そんななかで、聞こえてきた言葉があった――ああ、もしかしてあれが、二年の研究者志望クラスの身の程知らずの劣等者?
……身の程知らずだった。
身の程知らずだったよ。
偏差値は二十九だしさ。
認めるよ。
ごめんなさい、ごめんなさい、劣等なのに優秀になろうだなんて夢を見てしまってごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……いくらでも謝るからさ、ほら、いくらでも、だから、だから、ゆるしてよもう、ゆるしてよ――あんな地獄のようなメニューとかいいうものなんかを僕にやらないでよ!
顔を覆われても、指をさされても、うわさされても。
そして全裸で走っているという異常事態なのに。
……僕の足は、止まらなかった。
僕は、なかばパニックになっていたんだと思う。それは、たとえるならば。火事の現場から駆け出してきたひとが、外に出られても、叫びながら走ることをやめないような――。
僕は、叫んではなかった。
でも心のなかでは、叫んでいたのかもしれない。
助けて、助けてよ、と。
でもだれも助けない――当たり前だ。わかっている。劣等者が燃えようが人間未満になろうが、この社会では、……だれも助けない。
でも、それでも――。
学校のこのざわめきのなかで。
だれひとり。僕を。助けようとは、しないのだ。
研究者志望クラスの、劣等者として――扱う。
校舎の。
研究者志望クラスと、対極の。
普通クラスのフロアと続く、下り階段が、ぽっかりと穴のように、そこにあった。
職員室に行ってみようか。とりあえず。
そしていちばん先に目についた教師に助けを求めてみる。
……いや。でも、駄目かもしれない。
あくまで担任は和歌山だ――そしてその和歌山が、僕のこの扱いは、承認している。
校舎から出てみようか。もう、いっそ。
そして近くの警察に駆け込むんだ。
外部の人間ならば、まだ話を聴いてくれるかもしれない。
なにかの手違いかもしれないんだから。
……でも、社会は劣等者に厳しい。
それが、故意ではなくても、過失でも。かならずしも本人にすべての責任があるわけでは、なくても。厳しい。厳しいんだ。自分の劣等を自覚できないということも、ひっくるめて――とても、厳しい。
いつかの、自分自身の後ろすがたが、ふっと見えた気がした。
中学のとき、高校一年のとき。憂さ晴らしに、夜な夜な、……劣等者を貶める動画なんかを、気まぐれのように観ていた、あのころの僕のすがた。
部屋の電気は消して、こうこうとモニターが白く光る。
パソコンデバイスを、家族に買ってもらった勉強机の上に置いて。
僕は、虐げられ、そして抵抗する劣等者を眺めては、ありえないなあ、と思っておかしな気持ちになっていた。この社会では、……ごく当たり前のこととして。
……こいつ、自分が劣ってることも、わかんないのかな。
あの感情が、いままさに僕自身に向けられている――全裸で、朝の校舎を走るだなんて、あのころの僕からすればありえないことをしている、僕へ。
……階段を、降りはじめた。
飛びおりるように。
しかし――立ちはだかるように、ぶつかった相手がいた。
「……よお。なにしてるんだ?」
担任の、和歌山だった。
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