連絡先、交換
……ここで、逆らったら、まずい。
ほとんど、それは、本能だった。理性というよりも。
「持ってます、けど」
「けど、が余計なんだよ!」
南美川さんに、蹴られた。ほら。まただ。また。痛い……蹴らないでほしい。
「ごめんなさい」
それでも、僕は言った。
謝れよ、と南美川さんに言われる前に、自分で謝った。
そうでなければ、また痛い思いをすると思ったから。
その思考は、正解だったらしい……南美川さんはにやりと笑うと、出せよ、と言った。
「……え」
「え、じゃねえだろっ」
こんどは、蹴られた。
痛い。駄目だ。いまのは、よくなかった。失敗した。……不正解だ。
「スマホ。早く出して。ほらっ」
「……はい」
なにをするんですか、とも訊けない。
それは、不正解な気がするから。
……僕はかたわらに置いたかばんから、スマホを取り出した。
衣服が剥がれているときに、かばんを探るのは、うまく言えないが、妙なギャップがあるように感じた。違和感、自分の情けなさ――でも従うしかない。南美川さんには。従うしか、ない。だから僕は、……そういう気持ちを飲み込んで、ただひたすら、南美川さんの言う通りにして、スマホを取り出して、差し出した。
はるか高みにいる彼女に。捧げるように。両手で――それは正解だったようだ。南美川さんはちょっとだけ機嫌よさそうに鼻を鳴らすと、僕のそれを、受け取った。
南美川さんは、にやにや笑いながら、僕のスマホを操作する。奏屋さんも、おんなじような顔をして、後ろから覗き込んでいる。ほかのクラスメイトたちも、やっぱりおんなじような顔をして、ことの経緯を見ているように感じた。
ぷくっ、くすすっ、と。おかしそうに、南美川さんが笑う。ほかのひとたちも、つられたように笑う。
僕は自分の意思と反して身体が熱くなる。なにを、なにを見たっていうんだ。スマホデバイスは、当たり前だが、個人情報のかたまりだ。それはつまり僕のプライバシーにふれる情報も詰め込まれているということで――そういうのを見て、彼女たちは、笑っているというのか。
……やっぱり、なにか、僕のなにかは、おかしいんだと。
なんで笑ったのかは、僕には教えてくれなかった。
ただ、しばらく、そういう時が続いて。
……僕は熱い身体のまま、南美川さんたちと、正座した自分の握りこぶしを、交互に見ているしか、なくて。
ひととおり、……堪能したらしい。
南美川さんは、その細い指ですばやくなにかを入力した。
「ほら。返してやるよ」
「……ありがとうございますっ」
僕はまた正解だと思われる言葉を言って、正解だと思われる動作をした。つまり両手を受け皿のように差し出したのだ。あながち、間違いではなかったらしい。南美川さんはぽとりと、僕のスマホを落としてきたから。それを、僕は――両手で、受け取ることが、できたから。
僕は、おずおずと南美川さんを見上げた。
……それが、正解かどうかは、わからない。
でも、そうせざるをえなかったのだ。
僕のスマホに、なにをしたのか。気になる。
南美川さんは、そんな僕の気持ちを読みとったかのように、笑った。
「わたしの連絡先、入れといてやったから。感謝しなさいよね? シュンなんかが、わたしのアドレス、知ることができるなんて」
すっごーい、と奏屋さんが後ろで、馬鹿にするように、両手を合わせた。
「……え。連絡先」
正直なところ。
意外だった。
……そもそも僕は、だれかと連絡先を交換したという経験が、ほとんどない。
小学校でも、中学校でも、高校でも。
学年が変わった場合。最初だけ、何人かと連絡先を交換する場合もある。向こうから、寄ってくるのだ。でも、そのあと密に連絡を取り合う、ということはなくて……たいてい、一回か二回メッセージをやりとりして、それでおしまいだった。
ましてや、じっさいに、日常的にメッセージをやりとりしただなんてことは、ない。
でも、そっちのほうが気楽だった。
僕にとっては、家、というより自分の部屋で過ごす時間は、邪魔されたくないものだ。
なによりも、侵されたくないもの。
……そのときだけほんとうの自分でいられる気がする、から。
そういうわけだから。僕のほうからだって、連絡先を交換したいとなんて、思わなかった。
だから、それでよかった。
よかったんだ。よかった。
……よかったのに。
「……連絡先……」
返されたスマホは、さっきよりも、重みを増している気がした。
連絡先、連絡先。このなかに。――南美川幸奈の連絡先が、入ってしまっている。
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