二日目の朝
「――シュン。アンタさ、スマホとか、持ってないわけ?」
翌朝、後ろのドアから、教室に入るなり。
机に座って、クラスメイトたちと談笑していたらしき、腕を組んで足を組んだ女王みたいな南美川さんが、にやにやしながら言葉を投げかけてきた。……ちなみに、その机は、もう昨日からは使われない僕の席だったところだ。いや。今後の挽回しだいでは、わからない――けれど。
周りには、奏屋さんをはじめとして、クラスメイトたちがほとんど勢揃い。南美川さんとおなじように、にやにやとしている。
こちらに背中を向けているのは、自習している峰岸くんくらいだ。
……教室に入れば、なにかがあるだろうなと、それなりの心構えはしてきたつもりだった。
教室に入る前だけではない。校舎に入るとき……家を出るとき……朝起きたとき……どころではない、それこそ、昨日の夜から……。
でも、……そんなのは駄目だ、無駄だ、と。朝の教室に身を置いたいま、痛感する。
心構えなんか、いくらしたって。
こうして、心臓はばくばくするし。喉はからから、心はしぼむように痛くて。いますぐここから立ち去りたくなる。
それに。……南美川さんはきっと、僕の想像なんかよりもっとひどいことを、してくるんだ。
「……持ってます」
「おまえいつまでそこに突っ立ってんの。劣等者なら劣等者らしく行動しろよ」
……劣等者、らしく。
「……はい」
それが正解かはわからなかったけれど、僕はとりあえずその場に正座した。
この期に及んで、抵抗を感じた――こんなこと、したくない。だれが好き好んで他人の前で正座をしたいんだ? でも、僕の身体は正直だった。……自分は劣等者だという意識が染み込むのは、じつは、心よりも身体のほうが先なのかもしれない。
南美川さんが、嘲笑うように短く笑った。
そして彼女は立ち上がる――こちらに来ないでほしいのに、彼女は、彼女は、……僕だけを目がけて、そして、そして、……その痛い赤いハイヒールを、躊躇なく、僕の下腹部に、突き刺すように、蹴り上げてきた、――痛い、痛い痛い痛い!
おお、と奏屋さんが感心したような声をあげた、……痛い、痛い痛い痛い、痛い。
ハイヒールは靴ではなく凶器なんじゃないかって、そう認識を改めざるをえないほど、痛い、……痛い痛い痛い、僕は思わず下腹部を両手でおさえる、すると南美川さんはまた嗤う、そしてこんどはそんな僕の手の甲をハイヒールでほとんど垂直に突き刺した、――痛い、痛い痛い、痛いよ、だから痛いんだってば、クラスメイトのひとたちは――そんなにほがらかに笑っているけれど!
「だーめ、ぜんぜん、だめだめよ、足りてない。いい? まず、そこ、行動の邪魔。ほら、……リクが、教室入ってこられなくて、困ってるじゃない」
痛みに悶えつつも振り向くと、そこにはたしかに、クラスメイトのガタイのいい男子生徒がいた。おもしろがるように、にやにやと笑っている。
たしかに。
僕は、教室に入ってすぐ、南美川さんに声をかけられ、正座した。だからたしかに、ドアの真ん前に座り込むことになったのだ。
……でも。
教室の前のドアから、入ることだってできたはずだ――この男子生徒の、おもしろがっている素振り。南美川さんの、クラスメイトたちの、馬鹿にしたようす。
そういったことで、なんとなくわかった。これは、言いがかりだと。
けれど――そんなことがわかったところで、僕には、……なすすべなど、なく。
身体を動かそうとした。立ち上がると怒られそうな気がしたので、床を這うように、ずりずりと。
でも、そんなふうにいちおうは考えた僕の行動は、南美川さんのお気に召さなかったようだ。
シュン、と、怒鳴り声まがいの声が、……飛んでくる。
「まだ、謝罪をしていないでしょう?」
「……謝罪……?」
「リクに。クラスメイトのみんなに。交通の邪魔して、ごめんなさいって」
そんなことまで。
僕は、……謝罪、しなければならないのか。
それは。
クラス内で、道を塞いでしまったら、ごめん、と軽く謝ることはあるだろう。
でも、もちろん。南美川さんが、要求しているのは。……そういうレベルでは、ないわけで。
そんなことまで、僕は――。
「……なによ。その目」
南美川さんが、不機嫌そうに言った。その目? 心当たりは、ない。
「だいたい、アンタのその目が、わたしはずっと気に入らなかったの。アンタがこのクラスに混ざり混んできたときから」
「……目、って……」
「さっさと謝罪しなさいよっ」
僕は、肩を震わせた。
南美川さんの叫び声が、大きかったのだ。
あいかわらず、おもしろがって教室のドアの付近に立つクラスメイトのほうに、僕は、向きなおった。床に、這いつくばったままで。
……土下座、すればいいのか。
頭を下げようとした、そのとき――。
「違うでしょっ。どうして服を着たままでいいと思うの?」
「……また……」
僕は、床に両手をついたまま、床に向かって、小さくひとりごとを言った。
そうか。脱げと。――いうことか。
こんなにも、あっけなく。あっさりと。僕は――人間としての最低限の権利、尊厳を、剥がれるというわけだ。
僕は、脱いだ。
昨日、そうしたみたいに。
恥ずかしさと、悔しさと、なんだかわからないけれど全身が熱くなるこの感覚は、昨日とおんなじに、あった。
けれど――なにかの感覚が麻痺してきたのも、認めたくないけれど、ほんとうだったと、思うのだ。
そうして、一糸纏わぬすがたになって。
昨日とおなじ、教室の奥に、移動させていただいて。
自分のかたわらに、服をきちんと畳むと。
……クラスメイトに土下座をして、謝罪をして。
南美川さんをはじめ、ほかのクラスメイトのみなさんにも、謝罪をした。
……皮肉っぽく、心のなかで。
そんなふうに、南美川さんたちを敬う遊びを、はじめている――いや、それは。ほんとうに。……遊びなのか?
だって僕は笑っている。
へらへら、へらへらと。
弱々しいけれど、今日は笑っているのだ。
「はーい。ちゃんと、謝罪、できまちたねー。……あははっ。こいつ、けっこう、素質あったんじゃないの? 成績出るまではあんなに生意気だったのにね。自分が劣等だと思ったら、これだわ、従順になってさ、……かわいいよねえ、あはははっ」
ははは、と僕は合わせるように、笑った。口を、ぽっかりと空けて。考える前に、……身体が、そう動くのだ。
――あんなにも、昨晩は自分の部屋でひとり泣き続けたというのに。どうしよう、どうしようって。いま思うのは、どうして、ということだ。どうして、どうしてだろう。どうして僕は――いまこんなふうに心が鈍感になって、へらへら、まるで心底楽しいとでもいうかのように、笑ってさえ、いるのだろう?
「――それでさ、シュン。スマホ、持ってるわよね」
そんな、問いにも――はい、と答えて、……笑顔みたいに、うなずくしかない、僕は。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます