泣く
すとん、と。
あっけないほどの、僕のズボンが、足もとまで落ちてしまった気配。
反射的に目を開けてしまった。
目を開けたあとの世界は――そこまでの世界とは、一変するとわかっていたのに。
「……あは」
南美川さんの視線が、僕の、さらけ出した下半身に向いていた。
ほかの人間たちもだ。見ている。見られている。
口もとだけ笑みのかたちになり、目は奇妙にらんらんと光る――そんなまるで得体の知れない化けものみたいな顔で、彼らは、僕の、……いちばん、見られたくないところを、見ているのだ。
「……見ないで」
言っても無駄だろう。それでもとっさに言ってしまったのは、コミュニケーションのためというよりは、もっと反射的で原始的な、……防衛反応に、近いのだと思う。
同時に、両手をかぶせた。隠そうとした。当たり前だ。……だれが好き好んでこんなの剥き出しにしたがる。
「――ねえ。わたしの言ったこと、もう忘れちゃったの?」
南美川さんは、にっこりした。
細めた目が、わずかに開いて。そのほんとうの感情を、覗かせる。
猫なで声に、どすが混ざる。
怖い。こわい。このひとは、こわい……。
「劣等者は、羞恥心なんかもっちゃいけないのよ。さっき丁寧に説明してあげたでしょう? 言葉で説明してもわからないのかしら。身体に教えてあげなくっちゃいけない?」
「……やめて……やめてください……」
……こうして。
教室で、クラスメイトたちの前で、……一糸まとわぬ情けない格好になってみて、僕は、はじめてわかった。
いまされていることのほんとうの意味を。鈍い鈍いなんでどうしたって僕はこんなにほんとうに鈍いんだ、……気づかない、いつもこうやって、取り返しのつかないことになるまでどうして、気づかなかったんだ気づけなかったんだ、――中学生のとき調子に乗ったことこの高校に入ったこと一年のときの先生と相談したことそして自分の能力にちゃんと気がつかなかったこと!
涙が、目から溢れる。
ぼろぼろ、ぼろぼろと。
泣いたのなんていつぶりだ。人前で泣いたのは、もっともっとむかしのはずだ。
ほんとうに。
情けない。
惨めだ。
恥ずかしい。
いやだ……。
泣きたくない。泣くのはもっと、いやだ、いやだ。
それなのに涙は止まらない。
止まれと念じても、止まらない……。
こんなのって。……こんなのって。
「……やめて……もう……僕が悪かったですから……」
「謝って勉強ができるようになれば、それでもいいわよ。次のテストでクラス偏差値八十でも、とってみれば? そうすれば、アンタがひとことやめてと言うだけで、ネコ警察がすっとんできて、いますぐやめさせてくれるわよ」
「……がんばる……がんばりますから……もう、いまは、やめて……」
涙と鼻水と意味不明の汗で、顔はぐちゃぐちゃ。
「帰して……帰してよ……家に、返して……」
「あははっ。……やっぱりアンタ、マザコンなの?」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……それは、言わないで……言わないでください……」
母さんのことは、家族のことは、言わないでください。
そう言いたかったけれど、言えない。
このひとは、そうお願いしたら、……逆のことを、しそうだから。
……でも南美川さんは、僕の言葉を、ちがうふうに解釈したようだった。
「マザコンだったら、なおさら、こんな目に逢ってるのは、隠したいかあ。ねえ知ってるわよね? アンタがいまこんな目に逢ってるのは、偏差値上、正当なこと。だからアンタがよっぽど優秀にならないかぎり、わたしたちは、記録する権利もあるし報告する権利もあるのよ。……わかるわよね? アンタのママにだって、わたしは、この映像を渡せるのよ」
「……やだ……いやだ、やだやだやだ、やだ……」
そんな可能性は、まったく、みじんも。
言われてみればどうして気づかなかったんだろうとふしぎだけれど。
いまこうして言われるまで、……気がついてなかったのだ。
「……そうよねえ。だって、いやだものね? 夕食どき、一家団らん。アンタに、大好きなママ以外にどんな家族がいるかは知らないし、どうでもいいし、興味もないけどさ。でもそんな団らんの時間に、ぱっと映像が映るの、……アンタが全裸で赤ちゃんのように泣いてやめてやめてって言ってる映像! それもだれかのせいじゃないわよ。アンタが、シュンが、劣等だから、そうされているの!」
「……いやだ……いやだ……いやだあ……」
「いやよねえ。だったら。ほら。……言うことを、聞きなさい」
その声は。
慈悲深いようで、……もっとも、残酷な響き。
「おとなしく、言うこと聞くなら……わたしだって、悪いようにはしないんだからね。早く。わかるでしょう。……恥ずかしがらずにその生意気な手をどかして」
僕は、うっく、と嗚咽を漏らすと。
もう、どうしようもなく。局部から、手を、完全に離した――。
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