帰らせない
そんな調子で、一日が過ぎた。
気持ちが焦るだけで、勉強についていけなくて。
僕の、どうにもならない一日は。
僕だけを底辺にして、なにごともなかったかのように、過ぎていった。
僕の気持ちだけを置き去りにして――。
和歌山の意地の悪そうなホームルーム。いちいち、にやりとして、僕のほうを見てきて。僕はそのたび息が苦しくなるのを感じた。つらいからではない。怒りだ、これは僕の不当な扱いに自分が憤っているのだと――自分にそう言い聞かせないと、やっていられなかった。
これが劣等者の絶望だなんて認めたくなかったし、そんなことを、認めてはいけない。
いや、認めるもなにも、そもそもが僕はまだそんな劣等者だなんて決まったわけじゃ、ないんだ――そう言い聞かせて、……言い聞かせて、正座した上のふたつのこぶしを、ぎゅっと握る。……痛いくらいに。いっそ、血が滲んでしまえばいいと願う――。
そして。
ホームルームが終わると、同時に。
放課後が。……やってきた。
全身に脱力感があった。
まだ、……教室のいちばん後ろでの、正座は、崩していなかったけれど。
でも時間の問題だ。立ち上がる……立ち上がれば、僕は自由の身だ。
やっと今日という日が終わった。
とりあえずは。
帰れるんだ――家に。そうして、いろいろ、……考えればいい。作戦を、練ればいい。どうにか、どうにか。とにかくもうこんなまるで劣等者のような一日は――ごめんだから。
これでもう正座なんかしなくていいんだ。脚がもう限界だ。
してみて、わかった。正座なんて、……嫌いだと。当たり前すぎることを、こんなふうに、思うだなんて、……思わなかったけれど。
いやそもそも。僕が正座だなんて格好をしなくてはいけないのがおかしいんだ。茶道やかるた道とかの、文化的意味もないのに。
文化的意味でないのならばそれは上下関係をあらわすということだ。
もっとも、文化的意味での正座は、今日、僕がしていたようなものとは、まったく性質が異なる。文化的意味での正座は、技術の一種だ。伝統的な和装をして、ぴしっと背筋を伸ばして、自分が美しく、つまりはより優れているように見せるための、技術。
上下関係をあらわすときの土下座はだから違う。
ただ、縮こまって。全身を、控えめにして、小さくして。上位者の判断を待つためだけのものだ。震えて、待つためだけのものだ。
もちろんそういう正座を見たことはあった。というかふつうだれでも、見かけたことくらいはあるだろう。人権制限者や、一部の人間未満。そういった劣等者たちが、道や公共施設でそうしていることは、この社会の日常風景であるともいえる。
だから、まあ……しろと言われれば、……見当は、ついたけれど。
考えれば考えるほど、心のなかに痛みがふつふつと沸いて呼吸が苦しくなり、許せない、という気持ちが、たまっていく。
……じゃあ、どうする。
わかっているよ、僕――内心の自問自答で、吐き捨てて、だからとりあえず帰ろうと自分に言い聞かせて、立ち上がる。
しかしかばんを右手で掴んでそのまま立ち上がることのできたはずの、僕の身体は――そうはならずに、一気に、視界が、……うしろに引っ張られているかのようだ、なにが、なにが起きているかわからなくって、僕はとにかく――尻餅をついた。
床に思いきり当たってしまって、いたっ、と思わず言ってしまう。
頭上のはるか高みから、馬鹿にするような、耳をつんざくような笑い声が、飛んできた。
「……ねーえ、なんで帰ろうとしてるわけ?」
南美川、幸奈――いや、……南美川さん、だった。
口を、笑顔のかたちにして。でも、目は、笑っていなくて。
凶暴な目だ。相変わらず。僕を人間とも思っていない目。見下している。だから、だからこの人間は、やはり僕を対等な存在とは扱わない、わけで――。
「シュン。ねえ。理由を、教えて?」
「……理由って」
なにさ、と言う前に、僕の腹に思いきり蹴りが入った。
鋭い痛み。
やめて、ほしい、その赤いハイヒールで、……僕を蹴らないでほしい、……痛いんだ……。
「だからあ。どうして、わたしになあんにも言わずに、帰ろうとしたの? ううん、そもそも。どうして、わたしの断りもなく、帰ろうとしてるのよ。……あんた劣等者だって自覚ある?」
……そりゃ、そりゃこの教室では、そうかもしれない、けれど。
わかっているけれど、……どうしたらいい。
僕は、だって、人間だ。
人間としてこのまま学校生活を送るには、どうしたら、いいんだよ――それすら愚問ともし言われたら、……だって、僕の人権は、どうなるんだ。
「なにか言いなさいよっ」
また、蹴られた――僕は腹をかばうために、かばんごと全身を丸めた、……なにがおもしろいのか南美川さんがけらけらと笑う、まわりにひとが集まってくる、……芋虫みたいねと南美川さんは、けらけら、けらけら、笑っている、……僕のことをたぶん存在ごと、馬鹿にして。
だから。だから。だから……どうしたらいい。
どうしたらいいんだ。
それを、いまから考えたいんだ僕は、家に一刻も早く帰って、それで落ち着いて考えたいんだ、帰りたい、帰りたいんだ、……帰らせろよ、でもそう叫ぶ権利さえいまの僕にはないとほんとうは僕は知ってしまっているから――口のなかはパリパリに乾いて、……すべての口の粘膜がどこかにいってしまって、酸素を取り込もうと呼吸をするたび、やっぱり、やっぱり、……痛い、口を喉の奥を、刺すみたいだ、……痛い。
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