事実

「……くふっ」


 僕の成績表を、開くなり。

 南美川幸奈は、笑った。



 まさか、まさかと僕は思う。



「……見終えたなら、返して」


 要求するが、南美川幸奈は見るのをやめない。

 僕本人が先に見るべき情報を、そうやって、平然として先に見ている。僕のことなんか、もう、まるでかまわないまま。

 僕は頭が一瞬に熱くなった感覚がして、衝動的に手を伸ばした。無理やりにでも、返してもらうと。しかし南美川幸奈は、ひらりと避けた。軽やかな、蝶のように。そして笑う。僕を見下したように笑う――。


「あんたって、やっぱりさあ」


 ……くふふっ、と。いよいよ、耐えきれないとばかりに。


「……すっごいわねえ。劣等者だったのねえ!」


 そう言うと、そのアナログペーパーの結果を、僕に突きつけた――書かれているデータは多く、一瞬では読みとれない。だが、目で追って必死で読みとれば、わかった。それは。そこにある結果は、たしかに――。



「……嘘、だろう」



 僕が劣等者であることを、決定づけていた。それも――この教室において、足を引っ張り、迷惑をかけてしまうほどの、それこそ、……人権が侵害されるおそれだってあるほどの、絶望的な、点数。



 ぐらっ、と視界が揺れた気がした。

 一気に胸が苦しくなり、ひと呼吸ごとに喉の奥に刺さる。心臓の鼓動が、うるさい。顔に、血がのぼってくる。



 僕が?

 僕が、僕が……僕は、劣等者?



「嘘なわけ、ないでしょ。事実に決まってんじゃん」



 南美川幸奈が鼻を揺らして、思いっきり、僕を馬鹿にした。



「ねえー、狩理くんって、やっぱさすがー。こいつやっぱり狩理くんの計算通り、偏差値、二十九だね」

「そんな簡単な計算で、おおげさだな。なんてことないよ」


 峰岸狩理は、澄ましていて。

 奏屋繭香は、裾をだぼっとさせて頬杖をついてニヤニヤしている。

 和歌山は、どこか勝ち誇ったような顔で、こちらを見ている。

 ……ほかのクラスメイトたちだって僕に注目していた。


 じゃあ、じゃあ、じゃあ……こいつらは。気づいていて。もともと、気づいていて。僕の今回の試験のほんとうのところというものを――ひとりだけ気づいていなかったのは、そうじゃないと、否定していたのは、そうして、……結果的に間違えていたのは、まさか、そんな、嘘だろう、――僕?



 足元が、ぐらつく。どこか深いところへ――落ちていってしまうんじゃないかっていう錯覚、いや、この感覚は、……本物?




「えー、みんな、ちょっと静かにして聞いてほしい」


 和歌山が、あくまでもにこやかにクラスに向かって語りかける。はーい、と南美川幸奈がわざとらしく右手をあげ、みんな、静かにしよっ、だなんてわざとらしすぎる明るさをもってして語りかけ、クラスメイトたちは席につき、スムーズに、このクラスを、静かにさせた。


「今回のこのテストはー、定期テストでありー、今後の優秀なみんなの進路にあたってー、すごくだいじなものですー。もちろんまともな人間なら、……最低限の水準をとれた、はず。だな?」

「はーい、そうですっ、センセっ」


 ああ、南美川幸奈、うるさい、うるさい、声が動作が、いちいち、いちいち、うるさいんだよ……そんなふうに僕の感覚にすべてを張りつけて、きて。



「ただ残念ながらこの教室にはその水準に達してない人間も、いるな」


 和歌山は、ほくそ笑みながら――クラスメイトたちに確認するかのように視線を動かしながら、そう言った。


「みんなも知っている通り、その集団において偏差値が五十未満になった段階で、その人間の人権は、段階的に制限されていく。このクラスのひとりを除いてみんなは優秀だから、逆の経験をいっぱいしてきただろう。つまり、偏差値が高ければ高いほど得をする、ってことだな。五十未満になっても、四十九とかだったらまだ制限の猶予の余地もあるけど、四十代前半、三十代と、ましてやその下というふうに下がっていってしまうとねえ――もうこれは、救いようがなくなる」


 和歌山は両手を上にあげた。やれやれとでも言いたそうな仕草だった。


「次の定期テストは、六月のはじめにある。そのときに、……劣等者が、挽回できればいいんだが、どうだか」

「せんせーっ、それってつまりい、そこにいる……」


 南美川幸奈が、ちらりと僕を見た。意地悪く。


「――そいつの人権は今日から六月頭までは、すっごく、すっごーく制限されるって、ことですよね? たぶん――そのあとも、ずっと」

「そういうことです。さすが、南美川さん、理解がとても早い」


 和歌山は、嬉しそうに微笑んだ。南美川幸奈も、嬉しそうに微笑んだ。まるでなにかをわかりあったみたいに。冗談じゃない――そんなの、とんでもない、冗談じゃないのに、……冗談じゃないんだ、僕が、僕が、……いまこの集団で劣等者に成り下がったなんて、そんな、認めたくない、実感がない、……実感なんてすぐにできるわけない、でも、でもそれは――事実、事実、……事実、なんだ。

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