常識

「どうして研究者志望クラスに入ろうだなんて思ったんだよ」


 蛇みたいだ、と思った、這いずるような顔の角度も、おなじく這うような声の調子も、その、見上げてくる、気持ち悪い角度も、気持ち悪い、……気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いよ、どうしてこの人間は――こんなかかわりかたを、僕にしようとしてくるんだ。


 僕は、できる限り精いっぱい、避けるように、のけぞりながら。


「どうして、って、それは」


 南美川幸奈と、おなじことを訊いてくる。

 だから僕も、南美川幸奈に言ったことと、おなじことを言う。


「研究者に、なりたかったから」

「正気か?」


 和歌山は、ハッと笑った。吐き出す息が、気のせいでなければ、……若干、臭い、やっぱり。泥のような、腐ったような――。


「おまえには無理だ」


 ほら、また、おまえって言った。ほら――また。


「分をわきまえろよ。……どうして勉強もできないのに、研究者になろうなんて思ったんだ?」

「――できなくないっ。いくら、先生でも。そんなこと言って、いいんですか。……人権侵害なんじゃ、ないんですかっ。訴えますよっ。……いまここでだってNecoに助けを求めたっていいんだ」


 ほう、と和歌山はなぜかすこし見直したみたいな顔をした。顔をすこしずつ離れさせていって、ようやく、やっと、僕との距離感が常識的な範囲になる、……気持ち悪かった。いや、いまも気持ち悪いことは変わりないけれど、……だってさっきのあんな近さ、おかしいじゃないか。そもそもが。



 和歌山は、ニヤリと笑った。



「感心、感心。そんな表情して、そんなことも言えるんじゃないか、ええ?」

「……なんのことですか」


 そんな表情してそんなことも言えるって、なにを言っているんだこいつは、理解できない。かりにも、教師たる者が。こんなふうに、わけがわからないなんて……許されることなのか。

 僕はもう気づきはじめていた。この和歌山というのは、僕がいままで出会ってきたどんな教師とも、違う。そしてたぶん、僕がいままで出会ってきたどんなひどい教師よりも、いちばんひどい――そんな予感が、ひしひしする。



 和歌山は、椅子に深くもたれかかると、えらそうに腕を組んだ。

 愉快そうに、べらべらと、その口がひとつの生き物のように動く――蛇が這いずりまわるかのように。



「まあもし正気で、その成績で、研究者になれると思ってんだとしたら、それはそれで狂気だし。そんでもってマジでほんとは狂ってんのに、自分は正気だって思い込んでんなら、それもそれで狂気だし。――おまえはどっちにしろ狂ってるってこった」

「……Necoに、そろそろ、言いつけますよ。人権侵害だって」

「おお、こわ。――いまはね、いまは、ちょっと困るなあ、そりゃ。明日以降にしてくれ」

「どうして、明日以降なんですか」

「そりゃあ、おまえ、いや、いやいやいや、あなたさま、成績の結果が出るから。実際に正式に、偏差値が出るからな。全体での立ち位置がわかっちゃうんだ」

「だから……」


 舐められまい。そう思った。けっして、舐められまい――だから声が震えては駄目なのだ。だから怯えては駄目なのだ。虚勢でも、保つのだ、こういうときに僕は、……人間関係のトラブルを起こしがちだけれど、それは、いままで出会ってきた先生たちにもよく言われたことだけれど、でも、……でも、それだって、だって、と思うのだ。こういうときにどうにかせねば、――僕はただ補食されておしまいなんじゃないか?


「だから、なんだって、いうんですか」

「だから、そのときには、人権侵害が認められるってことだよ。……学校内でも、偏差値によって、保護される人権と所持できる特権は違う。……常識だろう?」


 和歌山は、口もとまで徹底してにっこり笑った。

 僕はそれはもちろん、という意思を込めてうなずく、それはもちろん、……常識だけれど。

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