なにより、その数字が

 自分の心臓の鼓動が、またうるさくなるのを感じながらも、それでも、かろうじて僕は会話を続けようとする。


「……計算?」

「そう。あんまりにも簡単なことなんで、こんなん説明しなくたっていいと思ってたんだけど、でもまあほんとにそちらさんくらいの偏差値だとすると事情も異なるのかな。こんな当たり前のことも説明してやらなきゃいけないのかもしれないよな、うん、うん、きっとそうだ」


 峰岸狩理は、だれに向かってしゃべっているのか、……ひとりごとのように。


「俺はさ、御宅を除き自分は含めたこのクラス十六人の点数を、もう全部見ていたわけ。つまり御宅の点数さえわかれば、このクラス十七人全員の偏差値が、出たってわけだ。研究者志望クラスの問題は、研究者志望クラス専用につくられている。だから俺たち研究者志望クラスはこれから基本的にずっと、この十七人を母数として偏差値を出していくことになるんだ」

「狩理くん、すっごーい、もしかして幸奈たちの得点、全教科覚えてたのお? あんなにぱってさあ、一瞬で、見ただけでえ? すっごーい、すごおい、狩理くんってやっぱすごすぎー!」

「そのくらいの単純数字の単純暗記ならね、さすがに」


 峰岸狩理は、肩をすくめた。

 ちなみにもちろん、僕は、……いま成績表が手元にないというだけのことで、自分の得点など、わからなくなる。数字をぱっと暗記することなんか、できないに、決まっている。


「それで、いま一瞬で、計算したのお?」

「たかだか、二桁、三桁の計算、あとは単純な割合と偏差の計算だけ。これくらいなら幸奈だって簡単にできるだろ」

「えー、できるけどー、でも狩理くんみたいに暗算でぱっとできない。やっぱ、すごいね、狩理くんっ」


 ……と、いうことは。

 まさか、いや、……まさか、ではないんだ、これはたぶん。


 峰岸狩理は、今回の試験結果の、このクラスのデータをすべてもっている。

 ということは、いち個人の偏差値を割り出すことができる。教師たちの作業など、待つ前に。


 そして、偏差値の計算方法も、現代ではさまざまなやりかたがあるが。

 計算方法は、伝統標準的偏差値算出法だという。それは、この学校が事前に標準的な算出方法として用いるといったものと、おなじだ。今回のテストにもその方法を用いるということは、生徒がわにも事前に通知されている。


 伝統標準的偏差値算出法では、標準を五十とする。

 それを上回れば優秀だし、それを下回れば劣等なのだ。

 優秀、劣等がすべてを決めるといっても過言ではない現代――偏差値というものは、旧時代よりももっとずっと大きな意味をもっている、……数字のゼロ点いちポイントにだって、みなが一喜一憂する社会。それが、現代社会。


 そして、そして僕は。

 そんなふうに社会のだいじな基準である、偏差値が。

 今回の偏差値が――峰岸狩理が言うには、二十九しか、ないのだという。



「じゃあ、じゃあそれは……」


 自分の声が震えなければいい、震えてほしくないと必死に願ったのに、むなしく、僕の声は惨めったらしく震えていた。


「その計算が正しければ、僕の偏差値は、ほんとうに……」

「正しければ、とかやめてくれよ。俺の計算は正しいよ。疑うんなら、そうだな、匿名性加工を施したうえでデータの数値を渡してやるから、御宅も自分で計算してみなよ。御宅の今回の点数はちゃんと二十九になるって」

「……その、二十九、……二十九とかってやたらに言うの、……やめてくれないかっ」


 情けなかった。

 そして、恥ずかしかったし。

 ……相変わらず、顔が火照ってしまうのだって、そうだし。

 でも、もちろん。なにより、その数字が――。


 そういうのをすべて、帳消しにしたくって。できなくたって、……したくって。

 僕は峰岸狩理を睨みあげた。……普段はなかなか思っていることをちゃんと伝えられない僕だけど、でも、……でも、ここは言わなくっちゃいけないって、思ったんだ。



 緊急事態、非常事態だと――思った。



「まだ、わかんないじゃないか。いまアンタがやったのは、概算だし、暗算だし。教師がわや学校がわの意図があるのかもしれないし。推測でしかないってことだよ。推測でしかないことを、確定データのように、言わないでほしい」

「ほしい、か。ま、そりゃ御宅の願望だねえ」


 峰岸狩理は、肩をすくめた――その涼しさがやはり、とてつもなく、苛立つ。

 その苛立ちも、手伝ってか。僕は、こんどこそ立ち上がった――二本足で。

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