偏差値二十九
……なんだ、それは。
もちろん、僕は、そんなの聞いていないし知らない。
今回出たデータは、あくまでも、テストの満点と得点だ。つまり、満点に対しての得点率しかわからないはずなのだ。平均点が出なければ当然、偏差値も出ない。……今回はとりあえず個人のデータだけ返されて、これから教師たちが集計をおこない、だから偏差値が出るのは、まだ、もう数日は先のはずなのに。……もう数日は、いろいろと思考を整理するための時間があったはずなのに。
南美川幸奈が、やたら飛びあがって、はしゃぐ。
「えーっ、狩理くうーん、嘘でしょお。偏差値ってさあ、それってさあ、ふっつーに、ふっつーの、偏差値? ふっつーの、出しかたで、それ?」
「うん、幸奈の言ってるのが、伝統標準的偏差値算出法のことだったら、そう。平均五十、標準偏差十で、データを扱ったから」
きゃーっ、と南美川幸奈がおばけでも見たときのような、悲鳴じみた甲高い声をあげた。
「うそー、うそでしょおー、二十九なんてわたし、見たことも聞いたこともなーいっ。逆に貴重とか? あははっ!」
うるさい、騒々しい、……うっとうしい。
「たしかに、あまり見ないね。というか偏差値というものの性質上、二十九という数値に稀少があるのは当たり前だけどさ――」
「あの」
やった、と思った。
声が、出た。やっと、僕の口から出てくれたのだ。
ほとんど、反射的だった――でも言えた。言えたからには、……続きも、言うのだ。
注目が、こちらに集まる。僕はいまだしゃがんだ体勢のままで、それがなんだか、妙な気分にさせる。ちょっと情けないというか、恥ずかしいというか……どうしてだかはわからないけれど、この場にいる僕以外の全員が立っているからだろうか。
……力を入れて立とうとしたけれど、緊張のせいか、ふらふら、してしまいそうで――立ち上がりかけて転ぶというのももっと情けなく恥ずかしいだろうし、僕は、……とにかくいま僕の主張を適切に伝えるほうを、選んだ。伝えることだって、……命がけなんだ、僕のような人間にとっては。
「……偏差値って、まだ出てないんじゃ、ないの」
ゆっくり、やはりゆっくりと、峰岸狩理がこちらを見た。こんどは――かろうじて、僕を見るという意思をもってして、僕を視界に入れているようだった。
ほう、と峰岸狩理が言った。ため息に似た響きで、でも、違う。ほう、なるほどね、とか言うときの、それであると――紛らわしくて仕方がなかったけれど、おそらくそうなんだろうなと区別がつく程度のわかりづらさで、峰岸狩理は、ほう、と言ったのだ。
なにかが、刺さったのかと思った。当たったのだ。偏差値は、まだ出ていない。そう偏差値は、まだ出ていない。当たり前のようで、でもだからこそなにか見逃されがちな真実を、いま僕は、突いたのかもしれない。
それで峰岸狩理は怯んだのかもしれない。あるいは、深く納得したのかも。こいつ、意外と見てんじゃんなんて、感心したのかもしれない。それで、ほう、だなんて言ったのかも。
ちょっとずつ気持ちが明るくなってきた。そう、そうだ、なにかの手違い。そもそもが、すべてがなにかの手違いなんだ。峰岸狩理の言った通りだ。それにもし、僕の指摘に感心しているのであれば、ほんとうはあんがい話せばわかるやつなのかもしれない。そうだ。そうだよ。たしかに学年トップはすごい。けれども僕はそいつとおなじクラスにいるんだから。勉強のできるクラスに、こうして僕は進んできたのだから。だから。だから。それだったら――もしほんとうに峰岸狩理が話のわかるやつで、すっごく頭がよくて、でも同時になにかを見落としがちなちょっとうっかりしたところのあるようなやつだったら、僕は、……僕は、友達になってやったって、いい。
そう。僕の人生、ここらでひとりくらい、そうだよ、友達のひとりくらいいたって――。
「……それはさ」
峰岸狩理は、顔を綻ばせた。僕に笑顔を向けようとしているのだ、なら、それなら、……やっぱり。
「計算したんだよ。いま。俺が」
峰岸狩理の口もとは半三日月型で、きれいな笑みのかたちをしている。
それなのに、目は笑っていない――僕に向けられる視線はどこまでも冷たい、いや、そうではないのか? もしかしたら――ほんとうに、僕にまったく興味がないのか? そんな、……ほんとうに?
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