いやしのフェーズ
いやしのフェーズ、とやら――の説明が、はじまる。
「いやしのフェーズの期間はおよそ半日。ですので、いまこの瞬間から、本日の日付が変わるまでといたしましょう。時間は司祭の時計で管理します。司祭の時計だといまは午後の十二時半、ちょうどです」
広場のひとたちは一斉に自分の時計デバイスを見た。僕も、そうした。なるほど、いまは司祭の時計では午後の十二時半ちょうど――覚えておこう。
「さてそれでは、いやしのフェーズ。このフェーズでは、はたしてみなさんになにをしていただくのでしょうか。答えは簡単です。このフェーズでは、みなさんの疲れを癒します。文字通りです」
期待のように、すがるように、広場のいくつかの目が司祭を見上げた。
「みなさんは昨日から、この寒い寒い広場で、とってもいろんないろんなことがあって。さぞ、お疲れのことと思います。だから疲れを癒しましょう。絶対者はこの広場にいくつものいやしの場を用意しました。いわば癒しスポットとでもいいましょうか。……用語があまりにオールディでしょうか?」
司祭は小さく笑ったが、つられて笑う者は当然のごとくだれもいなかった。ちょっと口を挟んだだけで、氷漬けにされた人間がいまもそこで凍っているのだ。……下手な反応は、文字通り、命取りになりかねない。
「あったかい温泉。ふかふかのお布団。おいしいごはん。本日の夜、泊まれるお宿。そういうのを、用意させていただきました。……ほしいでしょう」
ほしい、と言えないひとなんて――いま、ここにいないと思う。
心身ともに疲れ果てて、今日も野宿かと思えば、さらに沈み込んでいくだろう。それが、そう過ごさないでいい可能性が出てきたのだ。いま、目の前に。
どんなにか魅力だろうか。
どんなにか、喉から手が出るほど、ここにいるひとたちは――それが、ほしくて。
……右手のリードが、問いかけるシグナルのかたちにすこし揺れた。
見下ろすと、南美川さんがちょっと困惑した顔で見上げてきていた。僕は小さくうなずいた。じっさいのところ、僕もたぶん南美川さんとおなじ感情をいま抱いている――つまり、僕たちはもうすでに癒されてしまったのだ、ということだ。
温泉も、布団も、ごはんも、宿もなかった。
しかしそういったものすべてが揃っていたときとおなじくらい、僕たちの、心はともかくとりあえず身体のほうは、なぜだか疲れが取れて回復した、……言いかたを変えるならば、癒されたことはたしかだった。
あの、雑木林の奥の。蜂蜜みたいな光と、水晶の音みたいな、摩訶不思議な空間で――。
僕たちは、いわば先に癒されていたのだ。
……それは、こんな状況では、すなわち、戸惑いにつながる。戸惑いは疑いに直結し、疑いはすなわち、……なんらかの底無しの落とし穴に、直行していくことが充分考えられるのだ。
「ただし!」
司祭の声が、高らかに響きわたる。
「いやしを受けられるのは、ここにいる全員ではありません。半分です」
この場にいるひとたちの気持ちが、さざ波のように伝わってくるようだ。……半分、半分、どうしてだ、どうやって、と。
「いま広場には百十一人のひとがいらっしゃいます。よくぞ、生き残ってくれました。絶対者は嬉しいそうです。……しかしそのうちのひとりは裏切り者であることも、また事実」
だから、なんだっていうんだ。
「裏切り者を確実に確定させなくては。そうでなくては、ひとびとはもっと植物になり、もっと獣に、なることでしょう。そうして広場から人類がひとりもいなくなったあと……最後に残るヒト型の者が、裏切り者。……そうなってはいけないので、裏切り者の可能性がある人間を、ここで、いっかい、分けるのです。逆に言えば確実に裏切り者ではない人間をここで決めておくということでもあるでしょう」
それは、だから、……どういうことだ、もしかして、つまり。
「いやしを受けるためには、自分が裏切り者ではないということを司祭にプレゼンテーションしていただきましょう。状況証拠、説得、説明……なにをしていただいても、けっこうです。司祭が納得さえするならば。そうして司祭が納得すれば、そのひとには、いやしをあげます。あったかい温泉。ふかふかのお布団。おいしいごはん。本日の夜、泊まれるお宿。……絶対者の用意するものだから、間違いないですよ。もし絶対者や司祭の言うことが聞けないならば、どうぞ、今日も、野宿をどうぞ。今宵もたいそう冷えるかと思いますが」
司祭は――奇妙に、微笑んだ。
「先着順です。だって裏切り者でなければそんなの一瞬で証明できるはずですから。司祭は、ナンバーツー池の、湖のまんなかの
裏切り者は、……孤立する。
「それでは、いやしのフェーズ、スタート!」
青空に、花火が咲いた。
虹の色の花火だった。
お祝いしているかのようだった。
運動会の、はじまりのような――まるで。
そして、やはり、運動会の徒競走のように。
ナンバーツー池の方向に向かって、すぐに走り出したひとがいた。
躊躇して、互いの顔を見合わせて、そうして急いで駆けていくひとたちも、いた。
ひとり、またひとり。
そうして、やがてはみなが、走り出し――。
僕は、じっと立ち止まってその背中を見ていた。
人間は。極限状態にあると、たぶん。……判断能力を、失ってしまう生きものなのだ。
僕だって、もちろん。いま、ある種の極限状態なのだろう。身体は癒されても、心はもうなにか、普通ではない状況に置かれていることを存分に舐め尽くしている。
だからこうやってぼうっと突っ立ってしまっているのかもしれない。
だからこうやって、僕は冷静なようでいていまなんにも、もしかしたら、この広場の世界のなかでいちばん、なんにもわかっていないのかも、しれなくて――。
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