だれのせい

「じゃあ、どうすればいいっていうの? ねえ!」


 熟年の女性が、天に向かって叫んだ。

 虹の文字は、やはり応えるように――ゆっくりと、焦らず慌てず、直線でその意思を描いていく。

 さきほどの、犯人がいる――などと言う文字は消さず、その下に、……ゆっくりと。



 ――にんげん どうぶつえん



 人間、……動物園。



 ――にんげん どうぶつえん

 ――にんげん しょくぶつえん

 ――げんしの じだいの

 ――いきものに なる



 どういうことだ、とだれかがつぶやく、……深刻な声色で。

 下の二行だけが、消しゴムで消される……そして説明がつぎ足されていく。



 ――ここは らくえん

 ――にんげん たいかの

 ――らくえん



 にんげん、たいか――人間が退化する、ということか?

 そうしてじっくり解釈する間もなく、……それらの説明は、またしてもかき消される。



 いま、空に残っている文字は。……四行。


 ――はんにんは

 ――このなかにいます

 ――にんげん どうぶつえん

 ――にんげん しょくぶつえん


 それらだけが、奇妙に、ぽっかりと、残された。

 広場のひとたちはたくさんの問いかけを天に向かって投げかける。

 ……またしても、くすくすと笑う声が聞こえた。



 ……そしてその下に、ペンで描くみたいに記号がえがかれていく。

 すこし潰れたように楕円だが、……あれは、おそらくハートだ。

 ハートの、つもりだ。不器用な子どもがペンをこぶしで握っておおざっぱに描いたみたいな、ハートだけれど――。



 その、ハートのまんなかに。

 ……さらに、文字がえがかれる。




 ――みんな がんばってね

 ――だっしゅつ してね

 ――わたしたちは みかた

 ――みかただよっ!




 そして、あとはぱちんと、しゃぼん玉が弾けるかのごとく――そのハートは、中身の文字ごと、消えた。




「どういうことなんだ! もうすこし説明してください!」

「止まらないで! もっと、描いてよ! 私たちの味方なんですよね? ねえ、なんとか言ってください!」

「人間動物園って、人間植物園って、どういうことですか! これから僕たちはどうなるっていうんですか?」



 さまざまな、心底切実な声が、それぞれ天に向かって投げかけられ――でも天は、もう応答することはない。ただ四行の文章、……はんにんは、このなかにいます、にんげんどうぶつえん、にんげんしょくぶつえん、という文章だけを残して、あとはただ――沈黙してしまっている。

 ……葉隠さんは、見上げ続けてばかりいる。


 僕はしゃがみ込んで、まわりを気にしながら、口を手で覆ってしゃべっているのがなるべくバレてしまわないように、そうしながらそっと――南美川さんに、問いかけた。

 小声で。周囲には、けっして聞こえない音量で――。



「……おかしい、よね」

「うん……」


 南美川さんもごく小さな声で、でも、たしかに人の言葉を用いてそのように、うなずく。


「犯人は、……わかりきってる」

「……うん」

「あなたがそんな申しわけなさそうな顔をする必要はないよ」


 僕は南美川さんの頭に手を載せて、……軽く、撫でまわした。ほとんど反射的なのだろうか、南美川さんはちょっと気持ちよさそうに、目を細めた。


「なにか、心当たりはある? つまりあなたの弟と妹の考えそうなことについて、だけど――」

「そうね、まだわからないけど、でも真ちゃんってハートが好きで、お手紙とかの最後にはいつも――」

「なんや仲ようご相談?」



 心臓が、跳ねあがった。いや、それは、そうだ。ここには他者がいて、だからいきなり話しかけられる可能性なんて、充分にある。ありすぎるほど、ある。

 でもそれでも葉隠さんに唐突に話しかけられて、僕は肩を震わせてしまうくらいびっくりした。情けないことに。でもそれだけの反応を、たしかにしてしまったのだ。



 ……葉隠さんは腕を組んで、まるで見下すような目でこちらを見下ろしている。

 ……僕は、仕方なく、立ち上がった。葉隠さんもそんなに身長が高いわけではない。立ち上がると、僕の胸もとくらいの位置に頭があって――心底不機嫌そうな目で、葉隠さんはその高低差を見上げてきた。



「……私は来栖さんのことは信じてますえ」



 冷たい視線で射抜くように見上げてきながら、ただ淡々とそんなことを言う。



「ただ、南美川さんのことは、信じてへん」

「……南美川さんの、せいじゃないです。この状況は。彼女のせいじゃなくて――」

「そんなん、なんで言い切れるん。……私らを尊厳破壊するまでいじめ抜いた女よ。腹の底で、なに考えてるのかなんて、わかったもんじゃあらへん」

「僕も、最初はそう思いました。でもいまの南美川さんは違う――」

「そりゃ来栖さんが騙されてはるんやないの。いろいろとおじょうずなおかたやからなあ、南美川さんは。来栖さんも純粋そうやもんなあ。かわいそうな女がおったらころりん、かわいらしゅう恋してしまいそうなおかたや」



 葉隠さんの視線は、冷たい。言葉も、意思も、……それ以上に。

 でも。僕も。ここにかんしては……譲れない。



「南美川さんは、こんなこと、しません。……すくなくともいまの南美川さんは」

「なあ来栖くん。来栖くんはどうして南美川さんといっしょにいて、ケロッとしてはるん? ……私ら来栖くんがどないにされたか大学時代に南美川さんにようけ聞かされとる。けったいなことばっか、されてはったんやろ。南美川さんはそういうおひとや。……反省しとるなんつうのもポーズかもしれへんで。この女はそんくらいのこと平気でしはるわ――」

「……やめて、くれませんか」



 僕は、どうにか、このひとのことをまっすぐ見下ろして。

 ……どうにかこうにかで、言った。そう、言い切った。



「僕のことを、言うのは、いい。でも、南美川さんのことを、……悪く言わないで、くれませんか」



 葉隠さんの向けてくる感情は、相変わらずこんなにも冷たい。

 ああ。そういえば、といまさらのように実感する。

 そういえば。……そういえば、だけど、ほんとうに。





 葉隠さんたちと、僕の共通点。

 それは、南美川さんに、いじめられたことがあるということ。

 ……そしてそれを、抱え続けているということ。

 なかなか、奇特だ、……世界に何十何百人も、南美川さんにそこまでいじめられた人間がいるわけでは、ないだろうから。いや、もしかしたら、何十くらいならいるのかもしれないが――。


 そして、葉隠さんたちと、僕の相違点。

 それは、葉隠さんたちは、いまも南美川さんの不幸を望んでいて。信用ならなくて。……できることなら踏み潰したいと、おそらくは思っていて。



 ……そして、僕は、違う。大きな、その点が――僕と彼女たちは、決定的に、異なる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る