四つん這いで、立ち上がれる
僕は、ああ、と声を出した。
ああ、なるほど、そうなんですねとでも言わんがばかりに。明るくて、ちょっととぼけていて、それでいて相手をある種安心させることのできるたぐいのこの声を。
まるでいま気づきましたみたいに。
まるでいまこの瞬間に、僕は――状況を解しましたなるほどなるほどなるほどですねって、ああ、そうなんですね、それはそれはまた、とでも言いたいような、アピールしたいような、そんな、……そんな雰囲気を、意識して。
稚拙だとはわかっている。調子に乗っているとも。けど、……けど、そうでもしないかぎり起き抜けにこんな一方的に近くに来て話しかけられて、ほかに、……ほかには、防衛策さえ――ないじゃないか。
「ああ、なるほど、そうなんですね。それは、また、大変ですね」
「そうなんです。それも、比較的優良だった者が、二名、植物に。昨日植物になった例の者はもとから素行が悪かったからかと影も思ってたのですが、どうして――」
「……あの、それは、とりあえずは、僕ではなくて。表さん、……ああ、……カルさんに、言ったほうがいいんじゃないですか?」
「私も、そう思いました。でも、姿が見当たらないのです」
「だったらまあ上司さんとか……」
「上司も、いないのです」
「連絡を……ああ、いや、それは」
「いいえ。それは。それに、カルに、連絡を取ろうとしても。この世界では、通信インフラが使えないです。……まったく、異常です」
通信インフラ。
そのように言われてしまえば、そうですね、と僕はうなずいた。ため息混じりみたいな相槌になってしまったが、ほんとうのところため息混じりだなんてレベルではない――深く深くため息をつきたい気持ちだ、……現代Neco社会で通信インフラが使えないだなんてほんらいほんとうにありえない話で、旧時代も飛び越えて太古の時代の話かと、……言いたくなる。いや。言う相手なんて、いないのだが――Neco本人のほかには、だれも。
「……でも、僕に、そのお話をしても」
正直どうしようもない、という気持ちをどういう言葉であらわそうかと、迷っていたら――ふいに胸もとが激しく揺れた、リンリンリンと激しい鈴の音もした、……南美川さんが激しく動いたのだ。なにかを主張するかのように。確固とした意思、僕を見上げるその表情にも、なにか断固としたものを感じさせるようすで――。
「……どうしたの」
そのあとにすぐ、南美川さん、と言おうとして堪えた。……南美川さんのことは他者の前ではあくまで人犬として扱わねばならない。
南美川さんはくりくりとした目で、僕をまっすぐ見上げている。そしてどこか気遣わしげな顔で影さんを見上げて、こんどは、遠くを――雑木林の向こうまで見渡すような、そんな視線を投げかけている。
「……もしかして、行ってみたいの?」
植物にされたひとたちのところに、と小声でつけ加えたら――リンリンリンリンと、鈴が震えるほどにこのひとはうなずいて、しかも僕の胸をそれこそまるで本物の犬のごとく肉球でなんどもなんども、引っ掻いてきた。
影さんがふっと微笑んだ。すこしだけ、……なにか、気が抜けたかのように。
「……状況が、わかるのでしょうか。賢い、ワンちゃんです」
「ええ、はい、そうなんです、それはもう、賢くて……」
「こちらは、かまいません。ワンちゃんといっしょのほうが、社会人のかたも、いいでしょう」
僕は南美川さんの三角の耳もとで、小さくささやくように伝えた――じゃあもう今日はここから歩行ノルマをこなしはじめるよ、それでもいい? と。南美川さんはこくんとうなずいた。そして三角の耳も尻尾もぴんと立てると、それと同時に、四つん這いで立ち上がった――その背中も頬も腕もどこもかしこも、人肌の部分は赤くなってしまって寒そうだ。
それに昨日はマッサージだってできなかった。お風呂にも入ることができなかった。寝るときだって地面の上でだった。……疲れは、溜まっているはずだ。
人犬としての、四つん這いの身体にはほんらい人体的に無理がある――そうネネさんが教えてくれたことを、……こんなタイミングで、思い出す。
でも、それでもこのひとが、瞳に表情に意思を宿してこうして四つん這いで立ち上がることができるのは、あるいはもしかしたら調教施設ではそのレベルの毎日が、いや、それ未満のレベルの毎日が日常でとにかくそういう生活を繰り返してきたからかもしれない、と――ふと思い当たってしまったら、たしかにこのひとのあまりに当たり前なようすも辻褄が合うな、と思ったのだった。……そんなことは、こちらからは尋ねられないけれど。やっぱり。どんな生活を、もしかしてこんな野外で凍えて疲れもぜんぜんとれないような生活よりひどい生活を、送っていたの、だなんてまさか――まさか、さ。
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