クローン
「……ごめんなさい、Necoプログラマーの社会人のかた。私たちも、好き好んで隠していたわけでは、ないのですけど」
カル青年とミサキさんは、なにやら口汚く言い争いをしている。
制帽の下のよく見るとくりっとした目で、カンちゃんさんは僕を見上げている。
「ただ、事情が事情でしたので。忍んで暮らすほか、なかったのです。でも彼の相も変わらず衝動的な行動で、発覚してしまった。仕方ないです。……私のほんとうの名前は、影。彼のほんとうの名前は、表です」
「あの、失礼なこと言うかもしれませんけど。裏表、ではなく」
「はい。影と、表です」
……真と化のことを、想った。
どんな名前にも、少なからず命名者の意思や願いが込められている。
表と、影。そう名づけられた彼らの関係者にも当然、なんらかの意思や願いがあったはずだ。
「ですのでこれからは影、と。ああ。でも他者がいるときには、変わらずカンちゃんのままでお願いします。彼のことも、表ではなくカルで」
「わかりました。間違えないよう、気をつけます。……あの、もし訊いてもいいなら、なんですけど」
「なんですか?」
僕は、カンちゃんさん――あらため、影さん、に、尋ねた。
「事情って、なんですか。いえ。あの。詮索したいとかじゃないですし、言いたくなかったらもちろん、言わなくていいんですけど……。ただその、ミサキさん、そこにいるおばあさんも、悪いひとではないと思うんです」
ちょっと怖いところがあるにしろ、基本的には。
「こう言ってはなんですけど、もう、その、お歳ですし。なんて言いますか、その……」
「Necoプログラマーさんの言うことは、わかります。ご年配は労れ、と。わかります。……でも私にはそれ以上に表をかばわねばいけない事情も理由もあります。私たちには、事情と理由が」
ちらり、と影さんはうかがうような視線を向けてきた。数秒そのまま僕を見て、ゆっくりと正面に戻す。……青年とおばあさんが言い争っている。
「彼らは暴力沙汰になったら止めましょう。……どちらも、どちらにしろ危険人物なのです。ある意味では、私たちは、彼らにけっしてかなわない。よほどではない限り静観するのが、無難でしょう」
「危険って、おばあさんも」
「ええ。これは私たちの事情、にかかわってくるのですが」
またしても、影さんはこちらを見て。またしても、視線を元に戻す。……癖なのかもしれない。
「彼女は一見非常に無害な老婆に見えるかもしれませんが、それは半世紀近い時が彼女のなかを通過して、濾過したからこそ。進化生物学をやってたなんて、危険人物そのものです」
「その、僕は、……進化生物学、というのがよくわからないんですが」
右手のリードが、動いた。南美川さんはその場に伏せていた。四つ足で立ち続けることに疲れてしまったのだろう、僕はいいよというサインでリードをいちど、にど、ゆるやかに揺らした。……南美川さんは、なにかを言いたそうな目と顔でじっと僕を見上げている。
「世間で話題になったのは半世紀近くも前のことですから」
「すみません、僕も、聞いたことがなくて」
「だいじょうぶです。問題ないです」
影さんは、遠くを見るような目をする。
「進化生物学というのは、異端学問のひとつです。なぜそれが異端とされたかというと、さまざまな理由を挙げることができるのですが、ひとつには、カルト的であったこと。そしてもうひとつには、方法論が非人道的だったことです。……さきほど、見たかと思います。植物に同化した彼の喉にも容赦なく腕を突っ込んでいた。それも彼らのひとつの特徴です。検体に対する配慮が非常に希薄、あるいはそもそも存在しないのです」
僕は、うなずいた。たしかに――臨床実験が必要な学問で配慮がなされないというのは、された身になって考えるなら、……おそろしい。
「そして彼らはとある巨大な事件で捕らえられました。世では、グリム事件、と呼ばれています。聞いたことは」
「ない、と思います……グリムって、あの、
「関係がまったくないとは言いません」
なんとなく、……人工知能のグリムとの関連性については話したくないんだろうな、という印象を受けた。
「グリム事件というのがありました。私が説明するのもおぞましいほどの事件です。グリム事件は半世紀近く前。でも私たちにとってはけっして古くありません。いまの、まさにいま生きていることの、最中の問題です。彼女のようにすくなくともおおやけには改心したのはむしろ稀有な例といえるでしょう。進化生物学の生き残りはたくさんたくさん地下活動をしていましたから。そして表も影もその影響を受けたのですから」
「と、いうのは……」
風が、ひとつ吹いた。
影さんの耳もとの黒髪を、静かに揺らした。
「私たちはクローンです」
影さんは、僕を見上げていた。……その目はよく見ると茶色いな、と感じた。
「グリム事件で大量につくられた、クローン。ただし表は成功作です。影は失敗作です。だから表は、表になって、影は、影になったのです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます