十日間を、達成する
「……シュン、あなたはわかっているの」
南美川さんの瞳は、なおも僕だけを映し続けているようで。
「ここがもし、ほんとうにそういう世界なら。あなたの言う通りの、わたしがそうかもしれないと思った世界なら。あのひとたちは。わたしは、ううん、あなたが、あなたこそ――大変なことになるってわかるわよね。存在じたいの保証が危ないってわかるわよね」
「……もちろん。言いづらいことを先に言ってくれて、感謝したいよ、南美川さん」
「そんなふうにほんとうに余裕があるわけなの?」
叫ぶように、叩きつけるように。南美川さんは、口を大きく広げて言った。
……そのふたつの瞳にはいつのまにかしずくが溜まっているようだった。
「帰れないかもしれない、ってだけではないわ。植物にされたひとがいた。草が顔をもって歌い出してしまった。……そしてそれはまだ序の口なんだわ。ここからさらにこの世界は変化するかもしれない。あのひとたちも、わたしも、……あなたも、なにをどうされるかなんてわからない! 存在じたいを踏みにじられるような――」
「……それはね、とりあえず僕の場合は、かまわない」
なんだかすこしおかしくて、……おもしろがってしまうくらいの、気持ちになった。
だって。そんなのは。……いまさらだ。
「僕の存在はとっくに踏みにじられたことがある。だからそこは、気にしなくていい。……不幸中の幸いというやつかな」
南美川さんの瞳が、さらにこれでもかってほど
ついにそのしずくは、涙の筋となって溢れた。
「それは……わたしが、あなたにそうしたってことを……言ってるのよね……」
「いいんだ。僕が人間でいられることのほうが、ほんとうは間違っている。僕は踏みにじられてしかるべき存在だよ、だから高校のときあなたたちもそうしたんだろう……でもかえっていい予行練習になったよ。ほかのひとにはそういう耐性がないかもしれないけど、僕はいまさら踏みにじられたところでたぶんそんなに気にはならない」
「……うそよ……」
南美川さんは、その肉球で僕の胸にすがるようにふれた。
「うそだもの。そんなの。……平気でいられたはずがないわ。だから、あなたは高校のあともずっと――」
「僕のことは、べつにいいんだ。……問題はそうだね、ここからこの世界がどうなっていくか。ほかのひとたちがどうなるか、そしてそれをどう感じて、行動するか……」
僕は笑って、南美川さんの頭を撫ではじめた。すこしでも、安心してほしかった。たとえそれが無謀なことだったとしても。
「たぶん、ものすごく混乱するだろうね。そのなかで同時に、この世界がどういうかたちで変質させられたかを突き止めて、阻止して、もとに戻さなければいけない――もちろんあなたの散歩のノルマはこなしながら、あなたの散歩の最終日までに」
つまり、十日で。
「……シュン、あなたは十日間でどうにかするつもりなの」
僕は、うなずいた。
「気が重いけど、しょうがないね。……そうせざるをえない」
「あなたは、そんなこと、ほんとうに、成し遂げるつもりなの」
「わからない。まったく自信もないしね」
「それだったら、どうして……」
「今回のネネさんを逃したら次にいつチャンスがあるかなんて、わからないだろ。ネネさんは事情に精通してるみたいだし、できればいまここで手術を頼みたいんだ。そのためにはとにかくノルマを果たして十日後にはあのひとのもとへ――」
「それってわたしの身体のためでしょう? どうして、そこまでのこと、わたしのことなんかのために、――どうして!」
「……なんか、なんて言わないでくれるといいんだけどな」
僕は苦笑して、その頭をやわらかく、……金髪がついてきてくれるくらいにやわらかく、撫でる。
「あなたは人間だよ。僕はそのためにやることをやらなければいけない。それだけだ」
「どうして……どうしてよ……わたしは、あなたをいじめたのに。あなたを人間とも扱わないで」
「それはそれ、これはこれだ。……たしかに僕はあなたのせいでめちゃくちゃになった。でも」
でも――そう思って、空を見上げた。……見られているのか、いったい、だとしたら、どこから見られているのか――。
「あとの歩行ノルマの十日間を、達成する。そうしてこの世界から抜け出て、ネネさんに会いに行く。そうすればあなたは人間に戻れる。……だから、いっしょにがんばろうよ」
南美川さんは、やがて声をあげて泣いた――僕はその背中をさすりながら風を感じていた。
ぴたりと止まったかと思えばそのあとなおさら強く吹く風、……南美川化たちのなんらかの意図が込められているに違いない、その意図は、まだ――わからないし読みとけるきっかけさえもない、わけなんだけど。
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