視線は怪物
……逃げることは、できないのだ。
こんなにも、そうしたいのに。
それは、いま、ここでは、けっして――できないのだ。
……最後に、ひとつ息を吸った。
そして、吐く勢いで、……声を出せ、出すんだ、僕、声を、明確にひとに伝わるように――。
「……この、なかで」
ああ。僕は。……僕の声が、大嫌いだ。
声質ばかりは普通の成人男性で。けれどもそれ以外はなにひとつとして満足なレベルではない。卑屈に響き、聞き取りづらく、明確ではなく、――多分に、ひとを苛々させる。
高校のとき、南美川さんたちだって……。
「……このなかで、Neco、あるいは、……その周辺領域、など、を、……専門にされているかたは、いらっしゃいますか……」
言葉を、吐き出すたび。――あるいは、とか、周辺領域、とか、専門、とか、――そういうのを息をともに吐き出すたびに僕はまたひとつずつ確実に自分を、嫌いになっていく。
返事は、ない。ひとびとは、どことなく怪訝そうな顔をしたり、お互いに顔を見合わせている。身体が熱くなるのを感じた。――僕は、また間違ったことをしてしまったのだろうか。
帽子に手を当てながら、やたらとにやけているように見えるあの青年が僕に語りかけてきた。やけに親しげな様子で、気の許せる同僚にでも話しかけるかのようにして――。
「さっき、探してもらったんですけど、ほかにはいなかったみたいですよ」
……のんびりと、言う。どうして。……そんなに、のんびりと。
「……ひとりも、ですか」
「いまんとこねえ。ひとりも、いないみたいですが……」
青年は、きょろきょろと辺りを見渡す動作をする。その動作は、あまりにわざとらしくて、――反吐が出そうだった。
「おひとりだと難しそうですかね、お仕事」
「いえ、やるなら、……やってみせますが、効率性や、実現性、可能性、……その、もちろん、……どうにかするために、どうにかするので、やるので、その……できなくは、ないですが……」
ああ。だから。どうして僕は。――こんな話しかたしかできない。
「うーん。困りましたねえ。じゃあもういっかい訊いてみますか? ――ここにいらっしゃる社会人のかたでNecoあるいはその周辺領域を専門にされているかたは、いらっしゃいますかー!」
青年が、叫ぶように言うことは。
……さきほど、僕が自分で言った、ほとんど当たり障りのない表現となんら大きな違いはないはずなのに。
いや。……だからこそ、か。僕が、僕が自分で言った言葉を反復されると、こんなにも、なにかを疎んじてしまう白けた気持ちになってしまう――自分の発する言葉というのは、つねに不格好だという自覚があるから。
しん、としていた。
静まり返っていた。
だれも、返事をしなかった。
とある男女がこちらを見ているのに気がついた、まだ若いがパートナー同士だろうか――手をしっかりとつないで、それでいて、こっちを睨むように値踏みでもするように目を細めてまっすぐ見ていたので、それだけで僕はまたしてもぞっとした。
……どうにか、しろよ。
専門家なんだろ、と。
その四つの細めた目は、僕を責め立てているかのようで――。
責め立てる視線。困惑している視線。嫌がる視線。心配する視線。苛つく視線。不安な視線。
そういったものがすべて粘つく。
ひとつひとつは鋭利なのに、合わさると――こんなにも巨大な怪物みたいななにかとなって、視線は、……僕を絡めとる。
彼らを失望させてしまったら、その怪物の出方は僕には容易に予測がつく――だって、僕はすでに、その怪物に見入られてしまったことがあるから。
喰われて、咀嚼されて、呑み込まれ、消化され、吸収され、僕はなんの意味もなく価値もなくその怪物のひとつの養分として、終わった――それが、それだけのことが、僕の高校時代だったから。……だから、よく知っているんだよ。
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