Necoゼミの教授の言葉を思い出しながら

 ツール、とりわけマシンにふれるときには、不思議な気持ちになる。ふれてはいけないものをふれているような、それでいて、ふれるべきものにふれているような。


 Necoゼミの先生はそれを、神聖さ、と形容した。現代、ひとはテクノロジーにひれ伏した、と。

 あの変人教授がひれ伏すなんてよっぽどだなとゼミの同期たちは笑いあっていたけれど、僕には、どうにもそのやりとりのおもしろささえわからなかった。


 ……難しいことは、僕にはわからない。けれど。



 メタリックな蓋を押し開き、モニター部分とキーボードがあらわれた。

 モニターはごく標準的なサイズで、キーボードもごく標準的。しいて言えば、やはりすこしオールディか。とくにキーボードが取り外し不可なところを見ると、これは、ほんとうに、ノートパソコンなのだとわかる――。


 僕は、やはり――ふしぎな気持ちになった。

 そのままの気持ちで、電源を、……オンに。




 マシンが動き出す音が響いた。羽虫が飛ぶような、それでいて耳に心地よい音だった。

 マシンの内臓ともいえる搭載ネコオーエスが、そのロゴを表示させて確実に起動していく。

 僕は、息を詰めて見守っていた。

 ……起動は、滞りなく終わった。一分間はかかっただろうか。いまどき、かなり時間のかかるマシンだ。だが、でも、あくまでプライベート用でそんなにいろんな用に使わないのであれば、まあ遅いとはいえ標準的な起動時間といえるだろう。僕だって、自宅用のマシンはそんな上等なものではない。仕事でふれているものとは、もちろん比べものにはならないけれど――。



 モニターに指をふれれば、敏感に応答がある。そっと力を込めれば、画面上のものが選択できる。ちょっと指を滑らせれば、そのままついてきてくれる。

 柔軟に従ってくれた。ちょっと微笑む気持ちになる。笑っている場合ではない、僕はこれからここで休暇中であっても仕事をなさねばいけないのだが、……このマシンの性格の素直さに、ほんのわずかだけ心が緩んだのだ。マシンは、いつでも、……素直で、正直だ。



 指でタップを繰り返し、スライドさせ、様々なことを確かめていく。……ファイル。……ベーシックツール。……マシンタイプ。

 こんなことだって、大学で、……何回繰り返したことか。



 個人情報があるのではないかと危惧していたが、デスクトップはまっさらだった。念のために全体検索もかけるが、オフィシャルファイルが品よく収まっているだけで、プライベートファイルはひとつも見つからない。気を利かして消去してくれたのか、それとも別の事情があるのかわからないが、……まあ、もちろん、個人情報はないに越したことはない。あると、いろいろ面倒だから――僕はそう思いながら、いよいよ、オフィシャルツールのひとつを確実に選んで……ネコエディタを、起動した。






 モニターが真っ黒になる。なにひとつ、白色も他の色もなくなる。カーソルさえも、見えなくなる。

 南美川さんが、不安そうに僕の胸もとの服を肉球で引っ張ってきた。……故障じゃないわよね、とでも言いたいのだろう。

 僕はうなずく。安心させるために。もちろん、故障ではない。……Necoエディタというのは、こういうものだ。一面が真っ黒。ほかのツールもなにも見えなくなって、モニターは、ほんとうに、ただの一枚の黒い板みたいに化すのだ――。





『この真っ暗さにふれるとき、俺は、神聖さをとくに感じるんだよな。暗部、って感じでよ。おい、そう思わねえか。ネコエディタを使えば、ネコさんの頭んなか、思考のなかにダイレクティにかかわれる。……ネコさんの思考なんて、もともとがこんなに真っ黒なんだよ。そこで俺たちが自由な文字で自由な色で自由な意味を語って思考を紡いであげるってわけだ――』





 あの、変人教授の言葉。

 ただただ、変人だった、そしてとんでもなく圧も強かったという印象だけがあって、……普段だったらろくに思い出すこともないのに。いま、彼の言葉はやけに僕の耳もとの後ろで生き生きと聞こえてくるかのようなのだった。





 ――ネコさんの思考は、もともとがこんなに真っ黒。





 僕は、息を吸って。小さく、吐いて。両手をキーボードの前にセッティングすると、もういちどだけ呼吸のひとセットを繰り返して、呼吸を止めて、一瞬目を閉じて、そして――目を開けて呼吸を再開すると同時に、両手を、キーボードの上に振り下ろすかのように一気にふれさせた。

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