優れてるんだから話してほしい
「……どうにかできるかは、わかりませんが」
僕は、言葉を選ぶ。
なるべく、伝わるように、言葉を選ぶ。
……そもそもにおいてひとになにかを伝えるなんて、苦手だ。
けっして、好んで、やりたくはない。
しかし、この目を輝かせている中年の女性を目の前にしていると、――僕にとっては不愉快でもたぶんこのひとにとっては、なにか、なにかすごく気持ちを込めて手を取ってこっちを直視している、そのことをここまで切実な立場で状況で想うと――僕は、なるべく、正確に話さねばいけないと思う。
……正確に。
できるかぎり、語弊なく――。
「……でも、社会人の義務のひとつだと、聞いてます。その専門性を……社会、貢献性を……非常の事態に、生かすことは……」
――ああ。
嫌だな、と思った。
僕の声が、言葉が、……そんなふうに、まるでふつうの社会人みたいな意味をつむいでいくのは、ああ、ほんとうに――嫌なことだな。
「僕は、いちおう、Neco対話を専門としていますから……」
人間で、いるためだけに。
それは僕にとってはただの僕が人間でいるための条件で、唯一の理由に過ぎない。そのために、……やっぱり、人間でい続けたいと思ったがあまりに、身につけた、ただそれだけの……夢も希望も、意地や矜持さえもない、ただ、ただ、……僕は、堕ちたくないために、身につけた、その能力を――ただそれだけの、専門性。
こうして自覚し直すと、ほんとうに、――ほんとうになんて薄っぺらいんだ。
いま、足元で、僕のことを見上げてくれているこのひとのその、情熱や、理想や、やりたかったんだという生物学とか人文学的知識に比べて、僕のその専門性などというものは、なんて――。
……しかし、いまは、そんな自己嫌悪に陥っていることすら許されない。僕は、できることならそのまま黙って自分を嫌って、あとは静かに過ごしたいのに――この状況は、……人権制限者の管理者や、人権制限者のひとたちそのもの、そういうひとたちに囲まれて、ここまで注目されて、僕は、いまは、――すっと消えて逃げて人々のなかに紛れ込むことさえ、許されないのだ。……退社とは、わけが違う。
「どうにか、できないかは、はい、……試みては、みますけど……その……」
中年の女性はなにかをわかりましたとでも言うようにしっかと頷いて、たぶんあるいは、僕の次の言葉でも待っているかのようだったけど、――なにか、なにか言ってほしい。そんなふうに黙っていてくれないでくれよ。なにか、会話の方向性を導くことを言ってくれよ。社会人なんだから、そして、僕じゃないんだから、僕なんかより、ずっと、会話やコミュニケーションというのが、上手なはずだろう。僕は社会人になるのが遅かったんだ。まだ正式な社会人になれてから二年も経っていないんだ。劣ってるんだ。駄目なんだ。根本的に、人間に満たないんだ。だけどどうしてもそこにしがみついて、だから僕ができるのは最低限の対Neco的業務だけだ。会話や、コミュニケーションや、そのほかのなんらか道しるべをつくるようなことは、なにも、できないんだ。
僕より優秀なんだろう。もう社会人も長いんだろう。人権制限者の管理者をやれているんだろう。
堂々として、はきはきして。やたらと、大きくうなずくのが、ひとの話に反応するのがうまくって――
僕は、うつむいた。……長すぎる前髪が、目にかかった。そういえばこのごろ、ずっと、……散髪にさえ、行けていなかったから。南美川さんとふたりきりで家のなかで怠惰に過ごした日々。国立公園を歩き続けると決めて、実際にそうしたここまでの三日間。僕の、髪の毛は、またしても醜く、伸び続けて――。
そして、自分の両手をひさしぶりに眺めた。……当然ながら、黒ずくめ。寒いから。いまも、凍えるほど寒いから――僕はいつもの黒の手袋が、ほかの季節よりはつけやすい。
「……お願いが、あって。ほかにも、Necoを専門をしているひとがいないか、その……探しては、もらえないでしょうか……」
中年の女性はまたしても大きくうなずいた、うつむいていても握られた手やその空気の動きでそのくらいのことは感じられた。そして、僕の言葉の続きを待っているようだった。――だから。そうじゃ、なくって。
「僕ひとりでは、やはり……限界があると思いますので……」
またしても、うなずいた気配、――だから、そうじゃなくって。
……僕に、話させないでほしい。どうせ、変だって思ってるんだろう。どうしてこんな社会人に満たないような存在が社会人なんだろうとか思ってるんだろう。ここにいる、だれしもが。だれしもが、だ。僕には、わかる。そういうことなら僕はわかるんだ。わかる、わかるんだ、……わかるんだよ、だから……。
――僕より優秀なんだから、僕よりもっと、話してくれよ。人間らしいコミュニケーションというのを……僕に、なにひとつ期待しないでほしいのに。どうして、黙ったままなんだ。どうして、うなずくばかりなんだ。どうして……僕の言葉なんか待ち続けるんだ、そんな無価値なもの、いくら待ったって無意味なのに、どうしてそんなに無為に時間を費やすんだ、――僕はこんなに劣っているというのに。
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