地獄のノルマ
その日の後半も、大変だった。
昨日もたっぷり歩いた地獄のような距離を、僕たちは、いや、……南美川さんは、またたどった。
その小さな人犬の身体には昨日の疲れも相当残っているのだろう、南美川さんの足取りは昨日よりもさらに重たかった。
僕は途中までは小さくかけ声をかけ続けて、……このひとが惨めにならないようにとなるべく気をつけながらときには首輪につながるリードを引っ張ったけど、最初は荒く息をしながらもこっちを見上げて、がんばるわ、みたいな顔をしていた南美川さんは、……歩数が重なるごとに、声をかけてもリードを引っ張っても反応がなくなっていった。
強張った顔で、ただ、ひたすらに歩き続けていた。ときどき、ふらっとして、つまずいた。
それでも、歩き続けた。歩き続けたのだ。……正確には、僕が歩かせているのだけれど。僕だってこんなに歩くことなど普段ないからもうすっかり脚が痛い、――けれども当然僕の身体なんかよりずっと負荷のかかる南美川さんのほうが想像を絶するほどの疲弊をしているはずなのだ。
この歩行は、具体的に定められた絶対に守らねばいけない歩数は、地獄のノルマだ。
僕は、そう感じるようになっていた。でも。……この地獄を抜けなければ、どこにも行き着くことはできないのだ。
だって、そうしなければ。
南美川さんは、人犬のままで。そして、僕は――いや、僕は、……いまさらどこかに行ける気なんて、しないけれど。
南美川さんは、せめて、南美川さんは。――人間の道に、戻してあげなくちゃいけない。
……もう夕方というよりは夜といったほうがいい時間帯、ぐったりと全身をゴムのようにしてなにも力が入らないらしい南美川さんを抱いて公立公園の巨大な門をくぐりながら、僕は、思った。……黄昏の紅の最後の一筋が、ビル群に細く長く、映えていた。
二日目のノルマも、どうにか、終わった。
明日もある。明後日もある。……まだまだ、ふたりで歩く日々が続く。
まだ、あと、十二日もある。
どうなってしまうんだ。
こんな毎日。……南美川さんが、こんなにまるでただの物体のようになってしまうほど、力尽きる毎日。
続くのか。ほんとうに。……だいじょうぶなのか。こなせるのか。
ふたりで。公園を、ただただ循環して歩き続けるだけの――。
でも、やりきらなければ、南美川さんは人間に戻らない。……戻れない。
★
タクシーを拾って、高柱第二研究所に向かった。
ネネさんには、ごく簡潔に報告をした。
ネネさんも突っ込んだ質問はしてこなかったし、雑談とかで引き留める気もないようだった。
お疲れさま、とそれだけぶっきらぼうに言って。
……杉田先輩に、なんのコネクションかネネさんにつないでもらったことは、たしかネネさんが大層気難しい科学者だという話を聞いていて。
話してみれば、なんだ、ぜんぜん話しやすい、気さくなひとなんじゃないかと思ったけれど――たしかに、たしかにこうして表情の変化もほとんど見せず口数も少ないネネさんを前にしていると、……気難しい科学者という印象も、あながち間違いではないんだと、つくづく、わかった。
帰り道、南美川さんの希望通り、ケーキを買って帰ることにした。
昨日も寄ったケーキショップ。おしゃべりな店員さんがいるということは、もちろん頭の片隅にふっと浮かんだけれど、……べつに、それで店を変えるほどのことではない。社会には、世界には、どこにだって――そういうひとが、いるものだ。
……社会は人間で構成されているから、人間から逃れることは、できない。
「あらー、お客さまじゃないですかあ」
店頭にいたのは、今日も――昨日の、あのアンちゃんと呼ばれていた若い女性の店員だった。
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