一生、おとなになれないだけ

「……でもね、いいのよ、私はダックスフントのあの仔を飼ってみて正解だった!」


 ミサキさんは、ものわかりのいい人生の大先輩らしさの存分にある、そしてそれゆえに大袈裟で、どこか虚構のように響く明るい声を出すと――これまたわざとらしく、ううーん、と言って大きく伸びをした。

 それまでミサキさんの手を舐めていた南美川さんに対しても、優しいまなざしで、頭をわさわさと……撫でてくれた。


「だって、ほら、……もし孫がほんとうに人間未満になったら、私は、あの子を引き取るでしょう」


 まるで、当然のことを当然のように言っているかのように。

 お天気だったら、お洗濯ものをお外に干すでしょうとでも言うかのように。


 軽々と、歌うかのように……そう、このひとは、……じっさい僕の知らない世界と時代をそして社会を見てきたはずの、いわば人生の先輩は。

 このひとにとっての、人生の結論――あるいはそれじみたものを、そんなふうに、鼻歌を歌うかのようにして述べるのだ。


「そうしたら、あの子は、……最初からひとりっきりではない。お友達が、いるんだもの。そうしたら、……そうしたらね、私が一生あの子の面倒を見てあげるの。だいじょうぶよ! かわいい、かわいい孫だもの。いまだってとってもかわいいの。犬になったって……そんな……私の気持ちは……変わらない、とは、――言い切れないかもしれないけど、でも、でもいいのよ、……一生おとなになれないだけ」



 ……ああ。そうか。

 一生、おとなに、なれないだけ――ああ、そうか、……そうだよな。



 おとなになるというのが、たとえばそのまま、……社会人になる、ということなのだとしたら。とくに、この社会では、そういうことなのだとしたら――。



 人間未満になってしまったら、当然だけれど、……おとなにはなれない。



「……さっ! 今度こそ、そろそろ、ほんとうに、行かなきゃね。あんまり遅いとお婿さんもうるさいし。私のことなんか邪魔だと感じてるのに管理だけは徹底しようとするのよお、あのひと、嫌よねえ……」

「あのっ、……あっ、そのっ、ちょっと待っていただけませんかっ」


 僕は、いきなりしゃべりかけられて、……一方的になんでもかんでも話されて、あまりこのおばあさんとはまともに話す気は、最初はなかったのだけど――。

 でも、このときには、思わず、口を開いていた。


「たとえばミサキさんが嘆願するとかは不可能なんですか? お孫さんが、その、……そのようにならないように……たとえば、……法律上の制度を使うとか……」



 僕は、思い出していた。

 明確に思い出していたのだ。



 冬樹さんに教わった人間未満の制度のことを――。





 ……あのひとの、いまにして思えば渋めなおとなのひとの声で、いまでも、……あのとき聞いたことがよみがえる。




『人間未満基準法、というのがあるよね。まあつまりありていに言えば、こういう人間は人間でなくしちゃっていいですよー、っていう社会的な基準だ。

 有名な基準は、経済的基準、社会的基準、生活的基準。だよね。……ほんとうはもっといろいろあるのだけど、この三つが有名だし、ヒューマン・アニマルへの加工案件の九十パーセント以上はこの三つのいずれかに当てはまる。

 ……確認するよ。話に関係があるからね』


『経済的基準は、原則三年以上にわたり無収入、あるいは五年以上にわたり長期に下位偏差二パーセント以内の収入であること。

 社会的基準は、原則三年以上にわたり、就学、就労、またはなんらかの社会的施設のいずれにも属していないこと。または、一定基準以上の犯罪行為を行ったこと。

 生活的基準は、同居者または近親者の三人以上の請願、または同居者近親者二人以上に加えて知人五人以上の請願。

 ……まあ、いろいろと細かいけど、つまりは、駄目人間や邪魔者が、あらゆる観点で処分できるようになったってことだ。だろう?』


『でもね、じっさいに人権剥奪処分をするにかんしては、かなりシビアな審査がある。たとえば三年間働いてないからといって、満三年目の日になった瞬間の零時にいきなり倫理監査局がお迎えに来るわけでは、ない。ある程度の猶予というのはあるよね。つまりして、執行猶予だ。

 人間だからね。……みな、人間だからさ』


『それは、そうだよね。つまりは人権を剥奪するというわけだから、ミスがあってはおおごとだ。

 だから倫理監査局のヒューマン・アニマル監査は、ほんとうにじっくりと慎重におこなわれる。……僕たちは、知ってる。じっさいに監査者とあれこれやり取りをしながら、進めたわけだからね。

 そうだね、原則半年以上は様子を見るみたいだ。一年経ったあたりで、加工するかどうかの判断を下すみたいだね。というか、一年経っても状況がなんら改善しない人間は、やはり、人間未満だろうという風潮があるらしいよ。これは、らしい、という伝聞の話にすぎないんだけれどね』


『そしてまた、これらひとつを満たしたからといってかならずしも加工処分になるわけでもない。

 自明なくらいに、よっぽど程度がひどかったら別だけど、

 たいていはこれらの複合的組み合わせの判断だ――じっさい残酷なことに、経済的、社会的、生活的、……これらの条件ってしばしば、一致するからね。ほんとうにね、……残酷なんだろうねえ、そういうのってね』


『それと、だれかひとりでも近親者が異を唱えれば、処分はされないし、

 知人でも五人以上の署名があれば、処分は猶予になる。明日にもということは、ない』




 冬樹さん、冬樹さんたち、――いまならあなたたちの保有している情報のすさまじい価値が僕にもほんのすこしだけでもわかる、

 あの一家はそれをいわば、……自分たちの都合に合わせて利用してしまったんだろうけど、でも、――でも、ミサキさんとそのお孫さんの場合は、もしかしたら、





「無理よ。お若いひと」




 ミサキさんは、きっぱりと言い切った。

 その様子が、怒っても哀しそうでもなく、……あくまでもぴっかりと明るいから、僕は、なおさら――その迫力に、身動きさえできなくなった。

 ……その、笑顔を、見つめているのが精いっぱいで。




「無理なのよ、そんなことはね」




 だけど。どうして――。

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