やっぱり、犬
……南美川さんが。
ふいに、身を乗り出した。――ぐいっと。
なにをするんだろうと、むしろ僕が慌てたが――なんのことはない、南美川さんは、……ミサキさんの古木のような手を、舐めはじめたのだった。
このひとが、いつもなにかを舐める、……そのときの、奇妙にも慣れてどこか静けさを感じさせる、大層ふしぎなことにとても大人っぽい、その、横顔で。
いつもの横顔、そして僕もよく知るその感情を、もってして――。
ミサキさんは、驚いたように目を開いたけれど。
すぐに、笑った。……まるで毒気もなんにもないおばあちゃんのように。
「……あら、あら、まあまあまあ。慰めてくれてるの? ありがとうねえ。――賢くて、優しいワンちゃんね」
南美川さんは上目遣いでミサキさんを見ると、一瞬だけ舌をしまって、わん、と簡潔に鳴いた。
ああ、南美川さん、しゃべれるのに――やはりあなたは、犬のように鳴くこともできる。
……そうして、こんなに、見知らぬ他人のおばあさんでさえも、和ませることができる……。
ミサキさんはそのままじっと手を舐め続ける南美川さんを見下ろしていた。
「……うちのダックスフンドの女の子もかわいいけど、この仔も、かわいいわねえ」
ねっ、とミサキさんは無邪気に僕に問いかけてきたけれど――その質問には僕はどうにも真正面から返すことができず、ああ、はい、だなんて、……曖昧な相槌しか言えないし、相変わらず、なんだか恐縮しきりだった。
「……帰らなくっちゃ、いけないんだけれどねえ」
多少なりとも心がほぐれたのか、ミサキさんはいままでよりはどこか穏やかな雰囲気で、ゆったりと語り出した。
「そんなことだからね、うちはいま、大変よ。家庭不和も、いいところ。……娘夫婦は顔を合わせれば喧嘩ばかりだし、それにさっきも言ったでしょう、私、お婿さんには……もう、憎まれているほどですからね。お義母さんが気づけばよかった、お義母さんがもっと早くにちゃんと気づいてればよかったんだって、そればっかりで……だったら父親の立場って役割ってけっきょくなんなのよ、って話じゃないの」
ミサキさんは、肩をすくめた。
「家のなかも、大荒れだし。私はますます、娘夫婦のスペースにはいづらい。……かといって、自分の部屋でひとりひきこもってるのも、気が滅入るのよ。若いころはともかくね、もう、この歳になると、ひとりで部屋でやることもないし……。
……ああ。ひとり、といってもね。いまは、たしかに、あの仔は、……ダックスフントの女の子はいるけれど……」
ミサキさんは、ぽつりぽつりと漏らしていく。
試しに、飼ってみたのだという。
孫が、人間未満に加工されるかもしれないと聞いたとき。
びっくりして。
ほんとうに、びっくりして。
「……気が動転しすぎていたのかもしれないけれど、あのときは大真面目に本気だったわね、――つまり、孫と同い年くらいの小さな人犬の女の子を飼えば、……人間未満になる、ってことが、書物よりもネットよりも、よくわかるのかなって思ったから……」
でもね、ますますわからなくなっちゃった。
……ミサキさんは、たしかにそう言った。
「……ねえ、あなたのね、……この、金色の髪のかわいいワンちゃんも、そうだと思うけど」
南美川さんが、右の三角の耳をぴくりと動かした。
「人犬って、さすが人間がもとになっているだけあって、そりゃ、耳や手足や尻尾はともかく、ほかは人間にとても似たすがたかたちをしているし、人犬じゃないイヌよりも、ずっと賢いところがあるわ……」
でも。
……でもね、と。
「やっぱり、犬は犬。……うちのダックスフントの女の子は、たしかに人間換算で孫とおなじ八歳くらいの、聡くて優しい仔だけれど、でも……犬なのよ。なにをしゃべりかけても、人間の言葉で返事はしない、……できない。わんわん、きゃんきゃん、くんくんーって鳴くだけ」
それは、……南美川さんも、外ではそうだし。
南美川さんの話によれば、……南美川さんのように、人間としての声帯が残されているほうが、もしかしたら、レアなのだし。
でも、たとえ声帯が最初は残されていたって――飼い主が望まないのならば、人犬は人間の言葉をしゃべってはいけないんだ。
そういう、ものだから。
それが、人犬って存在――生きものだから。
「……ぱっと見はね、賢そうで、優しそうで、まるで人間みたいな顔をして、ときどきハッとするくらい、人間みたいでも……やっぱり、人犬は、犬なのよ。
なんの慰めにも、ならなかった。犬は――しょせん、種族にかかわらず、犬なんだなって」
それは。人犬が、そういうふうに、やっぱり犬であるというよりは。
――そういうふうに加工されて、そういうふうに調教されて、そういうふうに心も加工されるのだ。
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