むかしばなし(6)私たちが、そんな社会をつくった。

 そこからは、世論が、世間が、――社会が大きく動きはじめた。



 人気アイドルだったネコさんに、多くのメディアは同情的だった。

 ちょうど、そういった……ジェンダーの問題が、きちんと露呈してくる時代と噛み合ったということも、あったのでしょうね。


 午前早くの緩い緩いテレビ番組、お昼のニュースでも、夕方のワイドショーでも、夜のバラエティ番組でも……みんな、ネコさんのことを語っていた。

 しゃべっていた。



 あんなに魅力的なアイドル、ネコさんの中身が、男だなんてどういうこと?

 ファッション的にそう言っているのではなかったのか?

 いや……しかし、あの本に書かれたことが本当であれば、正真正銘、ネコというのはフィメールトゥメールなんじゃないか。

 ではあの本に書かれたことも本当?

 わからない。

 わからないけど。



 ――あんなに明るく、商業的にも成功していて、ファンも多く、このような本を書いて頭脳明晰で、

 とにかく、人気で、すぐにバズるし、いつのまにかお金も簡単に動かせるようになっていたネコさんを――




 世論は、かばったのね。

 けっして、敵にはしなかった。




 むしろネコさんのために涙さえ用意して見せたわ。

 アナウンサーも、キャスターも。タレントも、有識者も。

 しんみりとすることによって、――だって得はしたってなにも損はしなかったのだもの。



 ネコさんは、……ネコさんはね、人気者。

 人気者のために、涙を流したり、しんみりとして、同情すれば――私たち、ネコさんの応援者が、「おっ」とか思って、そのひとへの印象をちょっとでも変えるのは、……イメージアップするのは、当然、――当然のことじゃない?






 ……世間はね。

 みんな、ネコさんの本は、むつかしいって思ったけれど。

 ……私だって、あの拡張高い文章、そんなにすらすらと読めたわけではなかったのだけど。


 でも、ネコさんってほんとに頭がいいんでしょうね。

 ……私たちにわかるようなこととか、わかってほしいこととか、

 明確に、書いていたの、――あの本はまえがきからあとがきに至るまで、一冊ぜんぶ、私たちに、私たちひとりひとりに語りかけてるんだってようく、わかったわ。



 それでは、ネコさんがたびたびその本で言っている、ジェンダー論とかジェンダー学――って、なに?

 ……私はサブカルオタクだったからジェンダーという言葉の意味は知っていた。社会的な性別のこと。なんとなくだけど……知っていた。



 でも、なんとなくでしかなかったし、

 世間では、社会的な性別と生物学的な性別について、――まだたくさんの誤解をしていたひとのほうが、圧倒的多数だったのは、間違いなかった。



 ……いいえ。私だってほんとうのところを認めてしまうのならば、

 そんな、たいして、知らなかったもの。




 ……中学のときの同級生が性別を変えたとか聞くと「ああ気持ち悪いなあ」とか、場合によってはその相手のこと「ああ、かわいそうなひとだったのね」とか見下せることに安心してたりしてたんだから――。




 だから、私は。

 涙を流しながら、その本のクライマックスを読んだ。




 ネコさん。ごめんなさい、ごめんなさい。

 そんなに、おつらかったのに。




 そんなにおつらい社会をつくったのは――私たち。

 たとえば、私が、……ジェンダーの不一致を抱えるようなひとたちのこと、ナチュラルに、気持ち悪いとかかわいそうとか、そう思っていた、

 私たちが、……私が、





 ネコさんがそんなつらいめに遭う社会をつくった!






 ……ああ。知らなくっちゃ。

 いろんなことを知らなくちゃって、私は、……私たちは躍起となった。






 ジェンダー学は流行りとなった。

 それまでは、書店の入り口でよく見かける勉強系の本というと、もっぱら経済学や経営学だったのだけど――その隣に、平然と、大量に、ジェンダー学の本が、これでもかってほど並ぶようになった。




 あの、書店の光景。忘れない。……それまで私は本なんかにはほとんど興味がなかったし、勉強も受験があったから頑張っただけであって、どちらかといえば嫌いだったけど、あそこに並んだジェンダー学関連の本は、おこづかいをはたいてでも、バイト代をつぎこんででも、すべて、すべて読まなくっちゃいけないんだっていう義務感、……責任感、それは社会の一員であるという、私個人としてのはじめての実感でもあった。

 その本の表紙の真ん中に積まれているのはもちろんネコさんの伝記だし、……その場に立ち尽くして見ていたってすぐにひとり、ふたりとその本を手に取っていく、

 私はもう一冊その本を掴んで、そして今日の晩ごはんを抜けばいいやと決心して、もう一冊気になっているジェンダー学の本も手に取った……。



 当時は私がとんでもなく特別で、大きな使命を負っていると思って、酔っていたけれど。

 そんな若者、ありきたりだったわ。

 いまなら、わかる。ええ、いまなら、……いろんなことがね。





 ねえ、お若いひと。老人になるというのは、嬉しくもあるし、安らぐことではあったけど……やっぱり、ちょっと、切ないことなのね。

 ええ。だって。こうやってね。――行き着いた先から、ものごとを振り返ることができる。あるいはね、……もうそういう方法でしか、出来事を捉えられない……。





 だから。

 いま振り返れば、ネコさんはあのときも、確実にもう、すでに、……社会を、世界を、変えはじめていた。

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