ケーキショップでの割り切れないできごと

 南美川さんをマッサージして、ストレッチは一緒にして。

 南美川さんをお風呂に入れて、僕自身もシャワーを浴びた。


 そうすれば、束の間の休息の時間だ。ほんとうに、束の間――もうすでに夜の九時だから、明日のことも考慮して、あと一時間もすれば眠らなくっちゃいけないけれど。



 僕は冷蔵庫からショートケーキを取り出した。

 ドアの前に立って、豪華な箱を両手で差し出す。



「南美川さん。これ、なんだ?」

「ケーキ! ご褒美のケーキね!」

「正解」




 僕も、南美川さんも。

 茶番だ、こんなのは。

 ケーキを買ったことなんてお互いが知っている。……そのときいっしょにいたのだから。



 それでも、僕たちは茶番を続ける。

 わざとらしく箱を掲げ、演技ぶって箱を開く僕。やたらとはしゃいで、尻尾をぶんぶん振る南美川さん――いや、尻尾は、あながち茶番だけというわけでも、ないのかな。



 無理にでも、明るくしなければ。

 そう、振る舞わなければ。

 壊れてしまうものがある、限界を迎えてしまうものがある――そういえばふたりで暮らすこの生活も、もうそろそろ、一ヶ月を超えようとしていた。ふたりだけで、ほんらいひとり用の広くもないこの部屋で、……ずっと、ふたりでいたのだ。




 帰り道にケーキの店に寄った。南美川さんはただの犬のふりをしていた。僕はだからひとりなのだった。右手にリードで犬を連れて、ひとりで、ケーキを買う男だった。

 その店は、公園からそんなに離れていない場所にあって、首都の中央にある繁華街に堂々と建っていた。なかなかに、たいしたものだ。ケーキのブランドとも言われる、有名な店舗だという。カウンター型のショップで、すぐに買い物ができる。まるで服でも並べるかのようにずらりとカラフルなケーキが並ぶ。

 淡いベージュ色の三角帽子をかぶった若い女性の店員さんは朗らかな笑顔であれこれおすすめしてくれた。


『そう、これが新作のアーモンドルージュで、こっちがサファイアロストのチョコレートをふんだんに使った……あっ、ごめんなさい。私ばっかりおしゃべりしちゃってて』

『……いえ、ぜんぜん、構いませんよ……』

『でも、お客さま、すごく聴いてくださるから』


 せめて愛想笑いに見えるように、そっと苦笑した――聴いているわけじゃないよ、ただ、その勢いがすごいから、まともに言葉を返せないだけなんだ。

 早く、帰りたいのに。 

 嫌だとは、言えない。それでいてただ相手に苛立ちや失望や名前もつけられないぐちゃぐちゃした淡い負の感情を、募らせる。……こういうところが、僕が、とても駄目な所以のひとつなんだって、もちろん、わかってはいるのだけど。


『お客さまはケーキがお好きですか? 私、ケーキが大好きで、みんなにケーキのすばらしさを伝えたくって。それで親の反対も押し切って、こうしてケーキショップの店員に』


 ……ほら、僕の意見なんか、ほんとは訊いてるわけでもないから。わかっている。……そういうことなら、僕は、よくわかっているんだ。

 僕の意見をまともに聴きたがる人間なんか――この世に、いるわけがないから。


 ……右手から伝わってくる振動。南美川さんが、身じろぎしたのだろう。冬の夜。寒いはずだ。冷たいはずだ。早く帰りたいはずだ。ああ、そうだよ、……ケーキを買おう。南美川さんの好きなやつを。おいしいやつを。ショートケーキ、それで決まりだ、でもほんとうのところは、なんでもいい――早く、南美川さんにケーキを買ってあげなくっちゃ。



 僕はさりげなくショーケースに視線を走らせた。



『……ああ、親の反対っていうのは、社会評価ポイント的に?』

『そうなんです。そんなだれにでもできる社会的価値の低い仕事、って。とんでもない、って思いません? 私ほどケーキを愛しているひとが世の中にどれだけいるのかって話です』

『ちょっと、アンちゃん!』


 裏から別の店員さんが出てきた。ベージュの三角帽を被っているところは同じだが、こちらの店員さんは中年と思われる女性だ。


『お客さまにだらだら話をしない!』

『うえ、見つかっちゃった。……内緒ですよ?』


 アンちゃんと呼ばれたその店員は、唇にひとさし指を当てて、ないしょ、のポーズをする。


『おばさんたちの世代って資本主義的価値観に凝り固まってて、嫌ですよねえ。作業効率や能率ばっか気にして、マニュアル以外のことはするな、って。そういうのが人間の機械化を生んだんですよ? それなのに、ほんと……』

『聞こえてる! お給料カットするよ!』

『ほら、資本主義的価値観だ!』

『すみませんねえ、お客さま。この子、無駄話ばかりで』

『……ああ、別に、いいですよ』


 どうせ、資本主義的価値観だとか人間の機械化だとか、旧時代の反省あるいは遺物として、飽きるくらいにメディアで聞く話だ。

 ただ、それだけの、一般論だ。


『資本主義的価値観!』


 ケタケタ笑うと、アンちゃんと呼ばれているらしいその店員は、今度こそ接客を始めてくれる気になったらしい。


『それで、どういったケーキにいたしますか?』

『たっぷり、甘いのを、ください』

『自分用ですか? お仕事疲れちゃいますものねー』


 ……じっさいには、仕事帰りではなく、散歩帰りだが。

 ただし、トレーニングとしての過酷な散歩の――。


『……いえ。彼女に、あげるんです』

『わあっ! 彼女さんにですか!』


 びっくり、と言わんばかりに両手をぴょんと上げたジェスチャー。……そんなに、意外かよ。いや、実際に、意外だろうけどさ。僕みたいな人間に、彼女がいる、なんて聞いたら、さ。


『へええ、なおさら、だったらよくよく選ばないとですねえ……。彼女さんのジェンダーは、女性ですか? もしそうだとしたら、どうしてもジェンダー文化的に、女性文化に生きているひとたちのほうがスイーツに敏感なんですよ?』

『ショートケーキって、ありますか』

『え? もちろん』

『じゃあ、それを』

『いろいろ種類ありますよー?』

『……じゃあ、いちばん高級なものを』

『それだと、これですね。超絶スタンダード、伝統的スタイル。でっかいいちごに、たっぷりクリームのショートケーキ!』

『ああ、じゃあ、それで』

『サイズはいかがしましょうか? ワンホール、ビッグカット、それともピース単位で……』

『ワンピースでお願いできますか』

 

 ……どうせ、僕は甘いものはそんなに食べない。

 そして、南美川さんは、最近ましになってきたとはいえ――やはり、まだそんなにたくさんのものを食べれる身体では、ないのだ。

 犬として。……食べれない日々を、数年単位で送ってきたから。



 お会計をする。概念マネーで払っておいた。

 ケーキの箱が渡される。


 南美川さんが、こっちを見上げていた。

 尻尾をぶんぶん振って。



 そこではじめて、店員は南美川さんに気がついたようだ。



『わあっ、かわいいですねー。ワンちゃん。いまから彼女さんに会いに行くっていうのに、連れていくんですか?』



 尻尾が、ぴたりと止まった。……ぐにゃりと、すぐに曲がった。




 ……いえ。そうではなくて。このひとが――僕の、彼女なんです。




 ……そう言えたら、どんなにかいいか。

 でも、それは、間違っている。

 二重の意味、三重の意味、もしかしたら、もっともっと、いろんな意味で――間違いだらけだから。




『……はい、まあ』




 僕は袋に入ったケーキの箱を受け取ると、せめてにっこりと笑おうとした――なにごともそつなくこなす、社会人みたいに。

 でも、僕なんかが、……そんなにすぐに器用に振る舞えるわけも、なかったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る