来栖海

 ……これでいったん状況は落ち着いたのかな、どうにかなるのかな、姉ちゃんもこれでなんとなく帰るよみたいになるかな、と半ば安堵していたとき――。




 ピンポーン、とふたたびチャイムが鳴り響いた。



「……えっ……?」

「ああ、海だね」

「えっ? 嘘でしょ」


 えっ、いや、ほんとに、……嘘だろ?


「嘘じゃないよ。呼んどいたからね。今日は仕事だか仕事もどきだかで上がりも遅かったらしいから、この時間になっちゃったんだ。でも結果的によかったね。……けっきょく妹に聞かせない話をしていたわけなんだし」


 呆然とする僕を横目で嘲笑うように小さく笑いながら、姉ちゃんは立ち上がって廊下に向かってしまった。あ、ここ僕の部屋――そう声をかけようとしたが、そもそも膝に力を入れることさえ、ろくにできない。

 南美川さんはというと、どこかにやにやとして見える笑顔で、尻尾をぱたぱた振りながら僕を見上げていた。――なんであなたはこんなときにリラックスできるんだ?



 思い出した、とでもいうように姉ちゃんはふっと振り返る。……南美川さんを。


「ああ、そういうことだから、南美川さんは、人犬ってことでよろしくね」


 まるでバスケットボールの試合で指示を出すかのように、流れるような手慣れた動き、ひとさし指で南美川さんを、さした。

 そして、ドアの向こうに消えると。

 ガチャリ。姉ちゃんは、勝手に僕の部屋のドアを開けてしまった。




「ちーっす!」



 ちょっと無理につくったような甲高い声。

 ああ、このいつでもどこでも元気じるしの、ひとつ屋根の下でいっしょに暮らしているとちょっと温度も湿度も高くて暑苦しく感じるときも少なくない、ハイテンション。妹だ。間違いなく――来栖海くるすうみだ。



 姉と妹のやりとりが聞こえてくる。



「おー、海。お疲れ。迷わずに来れた?」

「うん、よゆー、よゆー。私、姉ちゃんみたいに方向音痴じゃないし」

「はは、そっか。お仕事お疲れさま」

「姉ちゃんもねー。といっても私は帰り道にスイーツショップに寄ってたのでしたっ」

「ああ、また例の仕事もどきか」

「そそー。でも、仕方ないよね。私みたいなのはそうやって社交性によって社会性を稼ぐしかないのさー」


 ……毎日、いっしょに暮らしていることが前提の、親しい会話。

 姉ちゃんの当たりも、やはり心なしか、いやたぶん勘違いではない、僕に対するものよりも、ずっと、ずっと――柔らかだ。


「んーっ、靴脱ぎづらっ。私がこんなくーき読まないヒールなのがいけないんだけどお」

「まあ、海はそれも仕事のうちみたいなもんだしね、仕方ないよね」

「っていうか、これほんと靴べら装置がほしいー。っていうかお兄ちゃんの家の玄関、モノ少なすぎない? 磨きさえないじゃん。さっぷーけー。お兄ちゃんらしいや」


 ……余計な、お世話だ。というか、実家が、そういう環境整備において整いすぎているだけなんだよ。


「あ、でも、つきあいみなし残業でも、行き先は譲らなかったよっ。すごいのよ、すごいんですよ、話題の首都部しゅとぶの伝統スイーツショップにいたしましたって。しかも、ちゃあんとおみやげ持ってきたからさ。あっ、でもー、お兄ちゃんって甘いのだいじょうぶだっけ?」

「いつも家でも食べてない?」

「あれ、そうだっけ? お兄ちゃんってなんでもまずそうに食べるからー」

「わかる。どれが好物かわかりづらいよね」

「ごはんとかもめっちゃ淡々と黙々と食べるしね。っていうか、ごはんに限らず、生きてて楽しいんですかあ? ってレベルでなんにも楽しそうじゃないよね。あれはある意味すごいレベル」



 ……僕はそろそろいたたまれなくなってきて、立ち上がった。

 ひょい、と南美川さんは犬っぽい動作で華麗によけて、ベッドによじのぼると、おとなしい犬みたいに伏せをした。……ぱっちりした目が、僕をどこかわくわくと見上げている。



 ドアを開ければ、姉妹がいる。……僕の、姉と妹でもあるひとたちが。一気に――バン、と開け放った。

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