ひとつずつ、自分を嫌いになっていく
僕は、気がついたら目を見開いていた。
南美川さんの全身を、抱き留めたままで。
いや、むしろ、自分がいましているであろう表情の可能性に気づいた瞬間――わざと、力を込めた。
だから――このひとには僕の表情なんてものは、いま、見えていないはずだ。
見えないように。僕が、そのように――したのだから。
臆病な、僕。――この期に及んで。
「……南美川さん」
それなのに僕の呼びかけた声は、どこか感情的に湿っぽくて、……自分でも思う、気持ち悪いと。
「べつに、いいんだよ、ほら、……そんなのは」
なにが――べつに、なのか。
そしてなにが、ほら、なのか。
そして、そしていったいなにが、……そんなの、なのか。
わからない。うまく言えない。僕は当然南美川さんより国語の成績もずっと悪かった。伝承や、文学のことも知らない。おしゃべりも、南美川さんみたいにうまくできない。うまく、言葉を、しゃべれない。……プログラミング言語だったら、まだマシだけど。でも――そんなモノこそ、それこそ、こんなときになにひとつとしてうまく機能してくれないのだ、――だいじなときにはなにひとつ役立たずの僕の、能力、……いや、僕なんかがそんな表現を使うのだってほんとうはおこがましい……。
「……だから、その、いいんだ」
言った瞬間問いは自分自身への疑問となって突き刺さる、
だから――なにが?
「……気にしなくても……」
矛盾している、もちろんそのことには気づいている。僕が、――ほかでもない僕自身が、どうする? って言い出したのに。
問いかけておいて、……答えをもらって、そのうえで気にしない、だなんて――ああ、初歩も初歩、それ以前の論理的矛盾。
こういうところだ、こういうところがあるから僕は――きっと、あの教室でもいじめられ続けたのだろう。
……虐げられ続けても、だれしもが当然だと思っていたのだろう。
「だって、ほら、南美川さんはさ」
「いいの」
ああ、ほら、――またしても口を塞がれてしまった。
肉球で――そんなに優しい目を、まなざしを向けられて。
あなただって……さっきまでは、泣いていたはずなのに。
いや、いまだって、……いや再会してからはいつだって、泣きたいのは、その権利があるのは――南美川さんのほうの、はずなのに。
「……まだ、ちょっと、早かったわね」
あなたには――南美川さんがあくまでも優しい顔でそんな言葉を呑み込んだのであろうことが、……僕には、わかってしまった。
あなたは、いまとても弱い立場で、あるべきすがたではなくて、人犬という立場なのに――まるで、まるで、……すべてを受け入れてくれるかのような、そんな、……伝説上の聖母みたいに、きれいに、うつくしく――笑って。
「ううん。違うの。責めてないの。あなたが、それで。ううん。
……それがね、いいのよ。シュン」
なにが――そんなことさえ言えない僕は、……僕は、僕はほんとうに、
「……ごめんね、わたしのせいで。あなたは、……あなたのなかに向けてしまうことを、わたしは、ついうっかり、……忘れそうになってしまうの。だって、いっしょに暮らしてみたあなたは思いのほかおもしろくて、ユニークで、ユーモアもあって……ついつい、楽しく過ごしちゃうから。でも、……でもね、あなたはほんとはそういうひと。
だから――やっぱり、わたしのせいなの。気にしないで。……あなたには、あなたの抱えるものごとが、ほんとは、……まだまだ、たくさんある。わたしが、そうして、だから――わたしのせいなのよ、……気にしないで」
そんなわけ、ない、――ほら僕はそんな言葉さえも言えなくて、
「……あの、さ、僕には、よく、わからないけどさ」
子どもよりも下手な言い訳をして、
「……南美川さんには、その服とか、似合ったと思うし。
ああ、そうだよ、さいきん南美川さんが自分でデザインしたネイルも南美川さんにだって似合うんじゃ――」
南美川さんは、そっと僕の頬に爪を立てた。ああ。――ケモノの、爪だ。
……なにを、錯乱しているんだ。
取り乱しているんだよ。
それに、だからといって、――いまの発言はさすがに、ナシだろ。
ああ、僕は。
ほんとに、ほんとうにどうしようもない。
……自分で問いかけておいて。そしてなんらかの答えをくれそうになったのに、
それがしんどそうだってわかった瞬間――こうやって、脅えるんだ。
僕はこうしてまたひとつ、確実に僕を嫌いになっていく。
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