いちばん、嫌なことは

 南美川さんの全身を、抱き留めたまま、言う。



「……それは、わからないけど。僕には。わかってたら……こんなにしんどくはないはずだしさ。でも、」



 でも。



「あなたが、いることで、……ちょっとしんどいときがあるのは、ほんとうだ」



 すこしは、……真実をたったひとつまみ拾いあげる程度には、正直に。



「けど、それは、僕が決めたことだ」



 すこしでも。――きっぱりと。



「僕が、あなたを買い取ると決めた。……飼ってあげるから、死なないでと言った。とても、身勝手なことだ。あなたの決断を、……結果的には捻じ曲げた。そして、生かしている。いまも」



 ほんとうはほんとうにあんなにもまっすぐに死にたかった、あなたを。



「僕には、その時点で、……すでに責任があるんだよ」



 責任。――こんな僕みたいな社会的劣等者の、脆くて醜すぎる将来の希望もなんにもない馬鹿げた、背中に。



「あなたと暮らすのは、でも、……思った以上に楽しいこともあった」



 あなたは、真実、……人間だった。

 そしてそれはきっと、ほんとうは――ずっと、あなたはそうだったのだ。

 ずっと。ずっと。……あなたは、ただ僕が劣等だったから、人間だと気づかなかっただけであって。だったら、そのことだって完全に僕の責任なんだ――。



「あなたがいなければ、さみしくても。もういちど、ひとりになるとしても」



 僕は、決めたんだ。……決めたあとも、こんなにも悩み、迷い続けているけれど。

 決めたんだ――。



「僕があなたを人間に戻してあげる、って」



 だから。



「ねえ、どうする? 南美川さん」



 南美川さん。



「あなたにとっては、とても痛いことのはずだ。抽象概念的な意味ではない。……身体が、とても痛む」



 地獄の、ごとく。

 気が、狂うまでに。



「痛みを、乗り越えなければ、……人間には戻れないんだよね」



 あるいは――政治家とかと同等のお金があれば、あるいは、……その痛みは、いらないのかもしれないけれど。

 超優秀者のネネさんたちでも払えないほどの額。そんなの、劣等の僕が、望めるはずもない。

 もちろん、そうしたいという思いも願いもあった……南美川さんには秘密で、ここ一週間転職サイトや夢志望ゆめしぼう系のサイトも見た。でも、でも、……やはりいまの会社からまた転職をする、という手はまったく妥当ではない、という結論に行きついただけだった。

 社会評価ポイントは積み重ねもだいじなのだ――いまやたらと転職なんかするより、すくなくとも僕のケースでは、……このまま対Necoアクセスプロセス社で勤務を継続させてもらえるほうが、ずっと収入や社会評価ポイントに、つながる。

 それであっても、痛みのない薬を僕が手に入れるまでには、何年、何十年、……いやそれでも足りないほどもっともっと長い時間が、どれだけ、必要なのだろうか……。



「悔しいけれど。ごめんね。南美川さん。……僕が優秀者であったなら」



 ……だから。

 悔しい。

 僕の力では、及ばなくて。

 けっきょくのところ痛い思いをする張本人は、このひと本人であるわけだ――。



「でも、僕は、……いつまで経ってもきっと劣等のままだ」



 そう。南美川さんにほんとうにふさわしいのは、このごろも思う、やっぱり、……やはりどこまでいっても、あの優秀者のカタマリみたいな峰岸くんや、真ちゃん、そして南美川化や、……そういったひとたちのいる集団や環境なのだ、と。

 たとえあの家そのものにはもう南美川さんの居場所はなかったとしても、あのひとたちのランクやレベルにふさわしいなかで、きっと、南美川さんは生きるべきなのだ、人間として――ほんとうは。



「だから、……今回は痛みを受け入れてもらわなければならない」



 痛み。地獄の痛み。……業火に焼かれ続けるがごとき、痛み。



「それでも、僕は――」

「怖いのよ。怖い」




 南美川さんは、きっぱりと僕の言葉を遮った。

 そして、その短すぎるちょっとぶきっちょにも見えてしまう前脚で、……僕の背中の両端を、両方の肉球で、トン、と押した。




「ひとりも、痛いのも、もう、いやなの。いやなの。いやなの……」



 ああ。――もし泣き出してしまうのならば、しょうがない。





 そう僕が思った矢先。





「でも、もっと嫌なことがあるの、わたし、こんな手じゃ、身体じゃ、――あなたを抱きしめることも、できないのよ」

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