ぼんやり

 そのあとも、手早く掃除機をかけた。

 なるべく南美川さんのケージのほうは見ないようにした――もし南美川さんがこっちをじっと見ていて、目が合ってなどしてしまえば、なんだかそれは、……いたたまれなかったからだ。


 いちおう、一通り部屋じゅうに掃除機をかけおわって。

 ガラステーブルの上はもういちど濡れ雑巾できれいにした。

 あとは、台所で食器の整理やゴミ袋のまとめ。余ったものは、冷蔵庫に入れておく。


 それらを僕は淡々とこなした。

 義務。あるいは、生活。単に、やること。目の前のタスクとして。


 そして部屋はどうにか秩序を取り戻した。

 廊下に大きなゴミ袋がひとかたまりできた以外は、いつも通りの僕の部屋だ。


 最後の最後に、台所の流しを水でザアッと軽く洗い流して――キュッ、と栓を閉める音とともに、きのうの大騒ぎの片づけは済んだ。すくなくとも物理的には部屋はほとんど元通りになった、……表面的にはこれで済んだ。

 そう。そうだね。わかっているよ――だから、そういう問題じゃないんだってこと。



 台所から部屋に戻るのは、正直気が重かった。でももちろん、掃除がひと区切りしたのに廊下に突っ立ってるわけにもいかない。もう、冬だ。室内とはいえ、廊下ではけっこう冷える。

 立たされているわけではない。高校のときには南美川さんたちによくそうされたけど、いまの僕にずっと立ってろとか命令する存在はいない。あるとしたら僕が僕にそう命じるくらいってもんだ、なんのためにと考えてみれば、きっとそんなんなったら僕はもう気がふれてしまっているときなのだろうな。


 それでも。

 数秒間ぼんやりと、部屋に続くドアを見つめていた。

 僕は、いいかげんに学ぶべきなのだ。数秒間どこかを見つめていたところで、僕の人生も抱えてる問題もなにひとつよくなりはしないんだということを。

 きっとまともなひとならこんな時間はないのだろう。僕がそうやってぼんやりとどこでもない場所を見つめる時間で、どこかを見つめ、そしてだれかをその目に映しているのだろう――。



 ……南美川さん。

 僕がいま視線を向けるべきは、こんな古びたオールディなドアノブではないのだ。

 そう、南美川さんなんだ。

 南美川さん。

 南美川幸奈。

 僕が人間に戻してあげると、全身全霊をかけて約束したひと。



 ……それなのに、いま、どうして。



「……入りたくないって、思っちゃうんだろうな」

 ごく、小さくつぶやいた。



 しかしずっとそう思っていても埒が明かないことはわかっている――僕は自分自身の時計を無理やり進める重労働感じゅうろうどうかんを強く感じつつ、ガチャリとドアノブを回した。




 ……南美川さんが、ケージの格子越しに強く強く、こちらを見ている……。

 僕はとりあえず後ろ手でドアをバタンと閉めた。……覚悟は決まったとかここで思えれば多少は格好いいのかもしれないけど、あいにく僕はその手の、いやあらゆる格好よさとは無縁なんだよな。



 そもそも――なにを覚悟するのかってことさえ、この生活でぼやけて溶けて曖昧になってしまっている。そのくらい、南美川さんとふたりきりの生活は、楽しくて、楽しくて楽しくて楽しくて、――たいせつなことさえすべて忘れてしまえるのだろう。



 思いと反して僕はにへりと軽薄に笑った。ああ。この表情筋の感覚、なんだかもはや懐かしい。高校時代にあなたたちにいじめられていたとき――僕は、よくこうやって意味もなく軽薄に笑ったもんだったよ。媚びていた。怯えていた。ゆるしてほしかった。――気持ち悪い僕の笑顔なんかでそうしてもらえるわけなどなかったのに。


「……掃除、終わったよ、南美川さん」

「知ってる……」


 南美川さんは、ケージのなかでぺたりと伏せた。

 こちらを上目遣いで見ている。……まだ、恨めしそうだ。


 そこから、言葉は続かない。

 こちらを見つめたまま、尻尾をゆっくりとした速度で水平に大きく振っているだけだ。……ああ、これは不満そうな感じだな。


 でも、……なんなんだろうな。

 僕は朝っぱらから南美川さんをお風呂に入れてあげて、歯を磨いてあげて、部屋の片づけまでこなしたんだ。

 南美川さんもそれはわかっているはずだ。いつもなら、お疲れさまのひとつくらい言ってくれるのに――。



 ……ちかりと頭にかすめたそんな感情がちょっと怖くて、僕はそれでもドアからケージまでのたった数歩を踏み出して南美川さんのケージの前に、しゃがみ込む。

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