かわいいね、
僕がしっかりと身体の隠すべきところをすべて隠しきり、風呂場から出てワンルームの部屋に戻ると、南美川さんはいつもそうしてくれているみたいにぱっきりと乾いたバスタオルの上で、ごろごろとしてくれていた。
十二月のはじまった朝、暖房が逃げないように右手でワンルームと廊下を仕切る扉を閉めながら僕は、……ごく自然なかたちで微笑んでいた、ひとひとりぶんの、前提としては一回ぶんの風呂の水分を落とすというために設計されてるであろうバスタオルは、……それでも南美川さんの全身に対してはあまりにも、あまりにも大きい、
包めてしまそうなほどに。風呂敷――南美川さんは、好きな伝承に出てくるそんなオールディな
……そしてそっと閉めたつもりでもなおバタンと音のするドアの前で、すっと気持ちが底冷えした。
いま、僕は、もしや――かわいい、と思っていなかったか?
ほんのちょっとでも、わずかでも、……南美川さんのことをかわいいって思っていやしなかったか。
以前は、ひとりきりになるだけでわんわんぐずぐず泣いて僕の脚にすがりついてきていたのに……お風呂もあんなに嫌がって短い四肢をじたばたとさせていたのに……ああ、いまやこんなに、自分のことは自分でできるみたいに身体についた水分を全身の動きでごろごろと落とそうとしている、なんてえらいんだ、健気なんだ、そうやって進歩してくれてるんだな――
――なんて、思ってやしなかったか?
ほんの、一瞬でも。たとえわずか一瞬の、僕の錯覚だとしても。
そして、あまつさえそれを、微笑んで――かわいい、なんて思っていなかったか、いまそんなことを思っていたのか僕、僕は、いや、だとしたら――正気かよ?
……僕は、ちょっと呆然としてそこに佇んでしまった。
南美川さんは当然のように僕を見上げ、おかえりなさーい、と明るく言いながらも背中をお腹をバスタオルにすりつけ続けることを、やめない。
そりゃ、そうだ。まだ、身体が湿っているのだ。……毛髪もだけど、南美川さんの全身は僕なんかよりもずっと、ずっと、……身体構造の特徴上、乾きづらい。
僕よりも、もっとだ。
もっと、ずっとだ。
湿ることは、気持ち悪いのだ。そのはずなのだ。
いや、もっとはっきりと表現しよう。濡れることによる身体的な不快感や、負担――それらはいくら男とはいえさすがに犬に比べればつるつるとした部分の多い人間の身体を持つ僕よりもずっと、……ずっとのはずなんだ、
僕の家に来た日の南美川さん。
バケモノの爪で撫でられたみたいにもはや傷が色素沈着してしまった背中を見せて、
ふるふる、と……そんなことをしてもほとんど効果がないのに、それでも、……そうしようとしていた、南美川さん……。
……ああ。思い出せ。僕。
あのとき、僕はなにを感じていた?
なにを見て、なにを思い出して、なにに結びつけて、なにを、……いったいああまで自分勝手ななにをそこに絡めて、
自分ひとりでは濡れた身体の対処もできないかつてのいじめっ子を見て――なにを、感じていたというんだ?
……ああ。感覚が。記憶が。鳴る。
いつも通り――やらかしてしまったのは僕だと、感覚レベルで僕を責め続けるんだ。
目の前でもうすっかりほとんどリラックスしてあっちへこっちへ、――しかし僕が事前に洗濯して準備して用意して敷いてあげていたバスタオルの上だけ限定で、ごろごろ、ごろ、と動き回る南美川さんをじっさい目の前にしながら、
……やりとりを、思い出す。
あの日。南美川さんを、はじめてうちに迎えた日。
『犬みたいなことするんだね』
『……仕方ない、でしょ。こうしないと身体が冷えて寒いのよ……』
そう。そうだ。あのときから南美川さんはもうほんとうは、……ほんとうに、素直だった。
『……きゃっ!?』
『そんなに怖がらないでよ。拭いてあげるんだから、いま』
『……い、いい。やめて。さわらないで。やめて……』
あのとき苛立ちめいたため息とともに僕は正直思っていた、
演技だろうと。芝居だろうと。あるいは――過剰なんだろう、と。
南美川さんはあのときの僕にとってはまだ、いじめっ子の南美川幸奈の、――成れの果て、そういう認識がきっと大きかったから。
あのときの南美川さんはほんとうに心底怯えて、……嫌がっていたというのに、
けど、とはいえ、だけど、……僕は、
あのとき――いったいなんと、言葉を被せた?
……自分自身が根拠であることはときになにより残酷だ、
『そんなこと言ったって犬なんだから自分でできないでしょうアンタ』
……たしかに。僕は。そう言った。
南美川さんが、人間であることも知らずに。
そして、嫌がる南美川さんをちょっとした復讐心ごっこでほとんど無理やり仰向けにさせ、その身体を、……弄ぶみたいに拭いた……。
「――ああ」
くしゃ、と後頭部を撫でる。ああ、ああ、……そうか、僕は。
ああ。ああ――認めるよ。キッツいなあ、こんなのはって。
いつまで経っても、きっついなあ、って。
「――どうしたの?」
もうすっかり僕には慣れましたみたいなようすの南美川さんが、犬のこうさんみたいに仰向けの体勢で、おどけるみたいにちょっと恥ずかしそうに犬みたいにちろりと舌を出して僕を見上げる、そのなかに、……ここまでになるまでにどれだけの地獄があったのか僕は知っている、はずなのに、
わかってない。
けっきょくのところ、わかってないんだ僕は。
そう、もともとはたしかに高すぎるほど気高かったはずのこのひとが、こんなすがたを僕に躊躇なく曝すまでの――気持ち、感情、……ほんとうのところ。
……右手で掴む後頭部は、まだ湿っている。
僕も、平均男性よりは髪が長い。――でも。
もちろん、このひとほどは、湿らない。
……人犬の身体にされた、このひとほどには……。
僕は、せいいっぱいに微笑んだ。なんでもないふうを装って。あくまでも、きょうだって、――楽しい休暇の、はじまりはじまり。
「……いや。お風呂、気持ちよかった? 南美川さん」
うんっ、と南美川さんは元気よく返事をしてくれた。
ああ、泣きたい。
嫌だ、もう、……ほんとは恥も外聞もなく、泣いてしまいたい。
いや、いいや、ほんとにそれよりももっと気持ち悪いことを僕は、……僕はほんとはもっと思っている、ああ、嫌だ、……自分という汚物がほんとうに嫌だ、
認めてしまおうそうだよ泣かせてほしいんだよ、って。
あなたの、その足元で。
ひざまずくかのように、這いつくばって。
いまも、大声で泣かせてくれるなら――僕はどんなにか、もっと楽だろう。
……だって、それは、シンプルに僕がつらいだけのことだから。
……こんな、状況になったあなたを、
それでもなお、かわいいと思う。
いや、だからこそ、だ。
だからこそ、かわいいと思っている。
人間としてのほのぼのとしたポジティブな感情は、……人犬というかわいそうな存在に直接的に向けられる、
ただ、それだけのものでしかない。わかっている。……わかって、いるのに。
南美川さんは、きょうもかわいい。
だから、僕はもっと微笑んだ。
いっそ、くしゃくしゃに笑えてしまえばいいのに――。
「そっか。よかった。……ドライヤーで乾かして、りぼんも結わせていただきますよ」
僕はおどけて言ったから、南美川さんも笑ってくれた。
かわいい。かわいい。ああ。――かわいくて。
人犬のあなたにそう感じるんだから、
自分がいまもこうして生きて呼吸をするだけで罪をつくり出しているという、そんな事実を僕は知る。
僕は――もう、純然たる被害者の陶酔と恍惚には、浸れない。
ああ。きっと。……ひとつの時代が、終わっていく。ごく個人的で――たいして意味も価値もない、汚物としての僕の成長記録。
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