朝の歯磨き(5)人権不充分
……歯磨きは、続く。
下の歯へ。……歯並びのいい、奥歯に前歯にあいだの歯。
なんどもなんども歯磨きをしてあげることで、僕はもうすっかり……このひとの口のなかや歯並びのディテールを、覚えてしまったのだ。
僕は、もう無駄口を叩かなかった。
無駄な思考さえも、取り止めた。
ただ、ただただ、……このひとのために、……自分でできない、このひとのために、
その口のなかを――すっきりとぴっかりと、人間とおんなじくらいに、いや、……自分でやったのとおんなじくらいに、
きれいにしようと――考えることがあったとしたら、もはやそれだけで。
……ただ、無駄な考えはやめたけど、ただぼんやりと全身で感じていることはあった。
一週間、休みがはじまってからとにかく南美川さんとふたりではしゃいではしゃいで遊びまくって、人間的な社会生活感なんて無視して、それこそ子どものように学生のように、はしゃいで、ただはしゃいで、
だいじなことはいちども話さず、
ふたりではしゃぐイベント感を保つために、僕はろくに家事だってしなくって――そりゃ社会人になってからも、そもそもがどちらかと言うとものぐさな僕は、毎週末の二連休の前半である土曜日に、食器洗いや掃除だってまとめてやっていたわけだけど、……それは僕が夜しか家にいなくて、食事といえばほとんどが近場のコンビニエンス・ショップでばかり買っていたから洗うべき食器も溜まらないし、そもそも家は帰ってきてだらだらしてあとは寝るだけだったから週にいちど掃除機でもかければそれでこと足りた、
……だから、いまは、ブラインドカーテン越しの白っぽい朝の光にやたらと埃が溶け込んでいて、
そんな空気感を肌で感じる、……それと、おなじくらいにただぼんやりと感じている。
南美川さんの、ことを。
あるいは、その気持ちを。
……たとえば、いまだって。
自分で、歯磨きができないこと。
それは、どういう気持ちなのだろう。
素朴に、……どういう気持ちなのだろう。
かつては、たしかに人間だった。
いや、いまも人間の心をもっている。……その意味では、充分に人間で。
でも、……人間の手も足もなくて、人権もない。
ただ手足がないというだけだったら、いや、……だけ、なんて言ってはいけないほどそこには歴史があったことは僕は大学の一年次の必修でもあったバリアフリー系の授業で知った、そのうえで言うのだけど、
旧時代はともあれ、いまは、……ただ生まれつき手足が存在してなかっただけのことであったら、
幼少期の細胞治療であっけないほど簡単にそれらを構築することができる――四肢のどこかをもたずに生まれた新生児がすぐに治療をはじめ、手足が生え揃うまでに一般に必要とされる三歳くらいになるまでに家族全体にかかる手間、本人にとっては幼少期の遊びたい盛りに病院通いが続くし、走り回りたくても三歳くらいまでは走れないとか、歩行訓練を一般の子どもよりも遅く始めるから多少子ども的なプライドが傷つく場合もあるとか、そういったたぐいの負担はたしかにある。けども――逆に言えば、その程度の負担で済むということだ。
もちろん現代でも、難病というものは残されている。こんなに科学技術も医療もパラダイムシフト的に進歩した、いまでも。
現代では、旧時代にはメインであったらしい外科的な療法よりも、どうしても細胞治療がメインだ。
つまり、細胞技術の未対応な疾患をもって生まれてしまえば――神経回路の関係で、手足が自由に動かせないという場合は、ある。
けれどもそうしたら、それこそテクノロジーの出番なのだ。
パラダイムシフト的に進歩しているのはなにも医療だけではない、
テクノロジーもだ――なにせ僕がいまこの生活でも現在進行形で南美川さんに貸している眼鏡型ポインティングデバイスは、……もはや人間にとってはすこし不便で、用済みといえるシロモノになっているくらいなのだから。
先天的か後天的かにかかわらず、身体機能のなんらかの平均的人体からのズレが機能的にいわゆる障害とされる時代は、とっくに終焉している。
現代においてもはやだいじなのは、五体満足に生まれることではない。
人権を、もつこと。
もち続けること。……それだけだ。
それができれば、たとえ身体にどんな特徴があっても本人が望めばほとんど不便さのない生活を送れるし、
それが、できないのならば――どんなにすばらしい身体をもっていたって、……なにもかもが、無駄だ。
人間では、なくされてしまうのだから――。
……だから。
いま、この世のなかでは。……人間であるかぎり、そして人権をなくしもせずかつ制限もされていないかぎり、自分で自分の面倒は見れる。
そう――充分な人間で、ありさえすれば。
……五体満足ではなく。
現代に必要なのは、人権充分――。
……いちど、僕の大学に来て講演をしていたバリアフリーテクノロジーの有識者も、演説台にアナログなペーパーファイルを頻繁にバンバンと叩きつけながら、水が流れるような勢いでそう語ったのだった。
技術者というよりはまるで政治家らしかったあの特別講師は、……そういえば、なんて名前だったんだっけ。
……だから。
歯磨きを、ひとにされるということ。
……いや。
ほかの、ことだって。
そうでないと、生活さえひとりで充分にできない、
――それはたしかに人権不充分で、
……僕なんかに面倒を見られている南美川さんは、いったいいつも、どんな気持ちで。
僕の前では気丈に明るく笑ってくれるときが増えたね――でもほんとうは、……いま僕の歯ブラシをまるで躊躇ないかのように受け入れて、促せば口も開けるし角度も変えてくれるしうがいも洗面器に向けてちゃんとしてくれる、そのときのあなたは、ほんとうは、――どんな気持ちでいるのだろうか?
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