橘さんの説明(4)状況確認、猫語録からの引用、そして冗談

「……まずは、現状と併せて、そのときの状況の確認をする。

 まどろっこしいと思うかもしれないけれど、それも私の――ソーシャル・プロフェッサー全員に義務づけられた、役目なの。……協力してくれますね?」



 もちろん、という気持ちを重ねて込めて、僕はもういちどうなずいた。

 橘さんも、ひとつうなずいた。力強く――。



「ありがとうございます。当事者の素直な協力は、ソーシャル・プロフェッサーにとって、なによりも助かるものですから。


 さて――では。

 来栖くん、……来栖春さん。あなたは、先日、11月23日の日曜日、休日指定の日に、首都東部の南美川家を訪れた――その事実に、間違いはないですか?」


「……はい。間違いは、ないです」


「書類上は、ひとりで訪れたってことになってるけど、参考情報としては――ペットの人犬も、いっしょでしたね」


 ひとり――ああ。そうか。

 南美川さんは、そうだよな、法律上は人間ではないのだから――。


 ……複雑だけど。もちろん。煮えたぎるような、切なさとも怒りともつかない感情が、ぐっと心を押し出すように喉もとにまでせりあがっては、くるけれど。

 ……いまは、そういうときじゃない。僕は歯を食いしばるような気持ちで、肯定のうなずきをおこなった。


「……その日にあなたを乗せたタクシードライバーのかたが、任意聴取にんいちょうしゅにご協力くださって、事情も必要最低限を言葉少なに、かつ協力的に教えてくださったあと、ただ最後に、ひとつだけぼそりと本題ではないことを、おっしゃってました、……いたくペットの人犬をたいせつそうに扱っていた、とのこと」


 僕はぼんやりと思い出す。ああ。南美川さんに向かうときに乗ったタクシーの、あの、微笑みの穏やかな運転手さん。

 南美川さんがぴょんと意を決して地面に前足から四つ足で飛び降りるまで、苛立ちもせずに待っていてくれた、あのひとか――。


 ……僕のチップで、コーヒーのひとつでも、飲んでくれたのだろうか。

 ……そんな本題にはなにも関係のない、すくなくともいまこの場ではまったくどうでもいいことを、僕は、けれど、やはり思ってしまう……。


「……そして、あなたは南美川家に訪れ、……そのまま、外部から確認できる消息が、途絶えた。

 翌日、11月24日の月曜日。出勤時間になっても、あなたは職場である対Necoアクセスプロセス社本社ビルに、姿をあらわさなかった。朝礼後の午前10時15分、私はあなたのオープンネットにダイレクトテレホンをしました。しかし、……応答はなかった」



 橘さんはそこで、すう、と息を吸った。

 かっちりとした話しぶりが、なぜだろう、いますこしだけ、……揺らいでいる。



「……まさか故意でもない、と。私は、そう思いました」



 あ、そういうことか、と、――僕はなんだかそのときの状況が想像できてしまって、橘さんのこの揺らぎ、わずかだけれど苦しそうな言葉の絞り出しかた、要所要所で低くなる発音、ああ、そうか、――このひとは僕のチームの担当のソーシャル・プロフェッサーで、僕の上司でも、あるのだから、



「ありうるとしたら、せめて過失である、と。……あなたの勤務態度は、ずっと良好だった。入社後、ずっと。遅刻も欠勤も、なし。大きなトラブルは、……先日のエモーショナル・コマンドによるNeco根幹システムへの干渉沙汰くらい。そしてそのときにいちどだけ、一時間の残業をしましたね。でも、……それくらいよ」

「……いえ、でも、遅刻も欠勤もないのは、……社会人として、当たり前だし、ミスだって僕は……やらかしましたし……」

「ええ。おっしゃる通りです。そんなことはね、社会人としては、当たり前。

 ……でもね、来栖くん。この社会に、社会人として当たり前のことが、入社一年めの、しかもダイレ入社の若い子で、……社会人として当たり前のことができるひとなんて、どれだけいると思ってるの?」


 ダイレ入社――略さずに言うならば、最終学歴卒業後のダイレクト入社、というそうだ。

 旧時代の体制では新卒採用といったらしいけど、いまでは一般にそう言われるようになっている、らしい。……この知識だって、橘さんからの聞きかじりなのだ、僕は。


「それでも、いいのよ。ダイレ組なんて、最初はいくらでもミスでもなんでもしてほしいくらいなの、すくなくとも私はそういう立場でいる。そういう子たちを、そこからね、……育てていくこと、それにこそ会社ほんらいの価値というものも存在する――」



 でもね、と橘さんはちょっと遠い目をした。



「……そう考えない人間も、うちの会社にだって、多いから」



 とくに、上とかね、と橘さんはわずかだけれどニヒルに笑う。



「古いのよね、考えかたが。たしかに、無断欠勤をされては困ります。それは私だって、全面的に同意。

 けど、……無断欠勤をさせるような状況に陥らせた企業側だって、努力が足りなかったはず。そうでしょう、旧時代じゃあるまいし、それがいまの主流の捉えかたよね? 『人間の尊厳は関係性のなかでのみ規定される』――」

「……高柱猫の、語録の、ひとつですね」

「ええ。よく、知ってるわね」

「そのくらいは、一般教養として……」


 ……正確には、Necoゼミに入ったとき、あの変人教授から「Necoおよび高柱猫にまつわる一般教養」とかいって、みっちりと叩き込まれたってだけなんだけど……。


「そう、つまり、その問題にかんしては高柱猫の言った通りだと私も思っていて。……よき関係性を提供できなかった企業にも、要因はあるはずなの。原因はたとえなかったとしてもね」


 原因と、要因。……なにか、意味が違うのだろうか。

 そう思ったけど、それを言うとますます話が逸れていきそうだから、……言わなかった。



「……とくにくるちゃんなんかぜったい事情があるはずだ、って。私、そう思った」

「……どうして、ですか? ほんとは、ほんとに、……会社が嫌になって、無断欠勤して、逃亡しただけかもしれないのに……」

「やめてよ」



 怒られたかな、と僕はとっさにびくっと肩を震わせる――けれども橘さんは、柔らかく僕を見ていた。

 ちょっと、呆れていて。


 それはつまり、このうえなく、……かわいがってくれるお姉さんのような、表情で。

 僕が、……姉ちゃんからは、ほんとにおおむかしにほんのわずかだけ、何回かだけ、向けてもらったような表情で……。




「……くるちゃんって、なんだ。冗談も、言うんじゃない」

「へ……?」



 冗談――を、言ったつもりは、なかったんだけど。……たしかにいま、ちょっと僕が気安い言葉を言っちゃったかな、とは思ったけど、どうなんだろう、いまこの場面って、



「……反省したほうが、いいんですか? 僕」

「反省するなら、会社に入ってからずうっと続いてた、あの縮こまった箱入りネコちゃんみたいな態度のほうを反省してね? ……なーんて」




 え――? と、意味がわからず訝しんで橘さんのようすをうかがえば、ふふふ、と橘さんはまたもなにか姉のように笑うのだ、うん、怒ってはいないみたいだけど、なんだろう、……よく、わからない。社会経験を積めばわかるようになるのだろうか、でもいまはまだ、足りないのかもしれない、そう、――いまの僕では、きっと、まだまだ。

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