説明(4)慣れるわけないの


「……南美川さん、説明をする、ここからが、ほんとのほんとに――本題なんだ。あなたへの、お願いなんだ」



 わたしはだくだく涙を流し続けながらも、なに、なにって言葉で訊いた、

 呼吸も苦しそうで、声も小さくて、かすれ声で、この一帯が静かだからどうにかあなたの声はわたしの頭のうえの耳に届いて、くれるのよ、

 肉球で、おでこをさすり続ける、なにもできないこの手が、ああ、ほんとになにもできない犬のこの手が、憎らしい、なにもできないじゃないこんなの、なにも、――なんにも、




 わたしはなんにもできないから。

 人犬のわたしが一匹いたところで、なんにも、なんにもできないんだから。



 だから――せめてこのひとの言葉に、耳を澄ませよう。

 ……ほんらい人間としては完全に終わったはずのわたしに、



 いま、こんなにも、信頼するあったかい視線を向けてくれるこのひとの、ほうを、――信じよう、そうよ、……自分よりも。





「……僕は、全責任クローズドネット開示要求をした……だから、……あなたの家族だったひとたちのクローズドネット、つまり、――あの家でなにが起こったかもオープンになる、」

「そうよね、……そういうことよね、」

「そう。そして、同時に、……僕のクローズドネットも、もうすでに……オープンになってるだろう……」

「……ごめんね、わたしの撮った、……ひどい動画とかも……」

「はは、もうそれはね、……いいよ。諦めました。僕が多少、社会的に恥をかくくらいで、あなたが人間に戻るために必要なものを得られたならば、……安いもんだよ、いいよ、南美川さん、そんな顔しなくても、いいんだよ、……泣かないでよ、僕はもうそんなの慣れてるからさ……恥をかくこと、くらい、もうなんとも……」




「――そんなわけ、ないっ!」




 わたしは叫んでしまっていた、獣のように、獣のように、



 ……慣れるなんて、そんなこと、



「……慣れるわけ、ないのだわ」



 わたしだって、ずっとずっと、――調教施設であんなことされ続けて、



「慣れないの。人間はね、ひどいことをね、いくらされたって、慣れないのよっ」



 ああ、いま、――自分自身をも人間ってところにナチュラルに含めてしまった、そんなことさえ自分で気がついてしまったけれど、いいの、いいの、――わたしのこころの動きなんかにいまはかまってられないのだわ、



「……わたしだって……」



 わたしは、うつむく。髪の毛が、垂れる、……人間だったころとまったくおなじみたいに。



「慣れなかった……ひどいこと、されるの、……慣れればいいのに、慣れればちょっとはらくになるのに、って何回も何十回も何百回も、もっと、思ったわ、」



 犬の心をもてば。せめて、犬らしい心をもててしまうことができたので、あれば。

 ――でも。



「慣れなかったのよ……慣れるとしたら、それはね、それはねシュン、」



 ……慣れ、じゃなくって。



「……壊れることなの……」



 カシャン、とあっけなく、……人間としてとてもだいじなところを、根本的に、徹底的に。

 ……だから、そうよ、シュン、あなたも。……わたしの、せいで。



「……わたしに、あんなひどいことされてる動画、撮られて、……クローズドネットで、……あなたの成績のひとつとして、残されちゃって」



 成績。劣等であった、という成績と、その証拠としてのわたしたちのあのくだらない残酷すぎるいじめの動画――。



「……劣等って思われ続けて……」



 そして、たぶんそのせいで、自分自身でさえも、自分を劣等と思い続けて。



「そのまま、生きて」



 生きて。生きて。――わたしが派手な女子大生やってたころも、そしてそのあと人犬に堕ちてからも。

 あなたは、淡々と。淡々、淡々、淡々と。



「……いじめのことだって忘れないで……」



 ああやって、――悪夢だって見て。

 なんども、なんども、夢のなかでも、……現実のなかでだって呻いて……。



「……わたしと、出会って、……なんでか知らないけど、人間に、戻すとかゆって、」



 ……そうよ、シュン、……わたしにはあなたのそこのところがわからない、ほんとうにまだ、この期に及んで、わからない、



「……そのせいでわたしの家族にあんな目に遭わされて……」



 薬を盛られて、両手を縛られてお酒をばしゃばしゃかけられたりとか。

 そこからいっかい脱しても、

 また、騙されて、……ううん騙されたのはどちらかというとお気楽なわたしだったけど、でも、――あのひとたちの悪意や悪意よりタチの悪い善意めいたものを真正面から受けていたのは、シュン、……あなただってそうなのよ、

 だって、だって、――そうじゃなかったらもう二十五歳のおとなのあなたに、高校生の制服を無理やり着せて、記憶も精神も戻して、あんなこと……あんなひどいふうに、放置するわけない、汚くて、犬とおなじ生活で、そうよ、……人犬にしようとした、

 けっきょくは、されなかったけど。

 あなたは、でも、――それだけの恥や情けないところや、屈辱を、たしかに受けた……。





「……慣れるわけ、ない」





 わたしはぽそりと言っていた。

 涙がそのとき、ぽつりとこのひとのまぶたに落ちて、シュンはちょっと目をしばたたかせる、ああ、――こんなときにおあつらえ向きみたいに涙なんか流れて、落ちなくたって、いいのに。……むかしばなしの陳腐なラブストーリーじゃないんだからさ……。





「わたしだって、いまも慣れないわ。……自分が人犬であること」




 ああ、すらっと言ってしまった言葉に、わたしは――自分でどうしようもない、それでいて激しい、そんな衝撃を、受けた。




 そっか。……そうよね。

 わたしだって――慣れては、なかった。




 自分は人間ではない、人犬という名の畜生なんだって、知ったつもりで、まったく、まったく――慣れては、なくって。




「……あなただって、だから、慣れるわけない……」




 恥をかくこと。かかされること。

 それは、――人間が人間であるっていうことを、そもそも、軽んじられること。




 ……尊厳を……軽視されること……。

 それが、それが、――どんなにかつらいか、





「いまなら、わたし、ちょっとは、わかるから」




 ごめんね。――ごめんね。

 思うのに、わたしがじっさいしていることと言えば――謝るんじゃなくって、このひとの大きな身体にすがって、泣くことだけなんだ、違う、違うでしょう、お願いごと、聞かなくっちゃ、役に立たなくっちゃ、――そう思うのに。

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