帰って、いいですよね?

 カシャッと、カメラデバイスのシャッター音のような音。

 そのあと視界が真っ白になった。なにかに包まれているんだ、そっか光かもしれない、眩しすぎてなにも見えないんだ――実際の時間にしてみればわたしはすばやく気づいていったのかもしれないけど、段階を追うようにして思考は続いていった、だから、なんだかやけにこの瞬間というのが長く……思えて……。



 だから自分の身体も忘れてしまえたの、

 まっしろななかでは手足が犬であることも耳が犬であることも関係なかった、


 ただ、ちょっと手を伸ばせばどこかに届く気がしたし、

 足を伸ばしてみればもうすぐふたたび立つことさえできる気がした、

 ぴんと直立しちゃう耳だって、白いなかに紛れてくれるのならばもうなにも問題ない、関係ない、



 ずっとこのまままっしろすぎるひかりのなかに、もし、わたしがいられるのならば。

 このまま、ひかりが止まなければ。



 わたしは、人間になれる?

 もういちど、




 人間に、なれる――?





 ちょっと右手を伸ばしてみたらふっと視界が戻ってきた、

 そこにあったのは、ただの一匹の、……人犬の前足、金色のもじゃもじゃと柔らかすぎて頼りない肉球。わたしは、自分の部屋だったこの部屋のカーペットの上にそれが乗ってることを目で確認して、……きゅっ、と肉球の真ん中に力を込めて収縮させた。




 ああ。無理よね。そんなの――。





 そう思って顔を上げた、ねえシュン、そうよねって視線と表情で訴えかけようとした、犬らしく、




 そして、わたしはとんでもなく驚いた。

 だって、シュンがそこで立ち上がってるんだもの。見上げると、見慣れた距離感と高低差。こっちを見下ろしてそこはかとなく困ったような微笑を浮かべるのも、ああ、――再会してからとってもとっても見慣れたこと、で。




「……え、だって、あなた、その、えっと――腰、縛ってた、ベルトは?」

「いま切った。というか切ってもらった」



 たしかにシュンのベルトについた拘束の白いバンドみたいな紐は、途中でぶっつりと切られていた。



「だれ、に……?」

「Necoに。最高権限命令を出した――緊急事態命令と言っても、いいかな。

 ねえ……そうですよね。南美川さんの、弟さん」




 そうよ。わたしははっと化を見た。シュンが戻ってきてくれたこと、光が真っ白で眩しかったこと、そっちにばかり意識がいっちゃって、ああ、耳と尻尾が垂れてきたわ、――わたしはなんと注意散漫で。この期に及んでまでね……。




 けど、その代わりとでもいうようにシュンは言葉を紡いでくれる。

 そこにいて、下半身の衣服も下ろしたままで注射器を手にした、頭のよすぎてきっと頭のおかしい、わたしの、――弟に。




「……いま、僕たちに手を出しても、いいですけど」

「いやだ、な。そんなこと、しませんよ。ふふ、やだな、ムコさんってほんとに……おしゃべりが、じょうずだ」

「はは。Neco専門ですけどね?」

「わかり、ます、それくらいの、ことは……」



 あはははは。

 うふふふふ。

 なんだか一見和やかなようで――





「……あのですね、弟さん」

「なんです、か。ムコさん」

「僕、そろそろおいとましたいんですよ。帰りたいんです、家に。なにせ食事もろくに取ってない、風呂にも入ってない。髭もこのありさまだし。なにより会社に行ってないんですよ、もう何日も連絡もなく。それに、南美川さんをですね、――もっと安心させるところで、暮らさせてあげたいんです」

「なんです、か、それ。プロポーズ、ですか? ……うちにいればいくらでもかわいがってあげる。のに」

「そうですね。ペットとしてなら、悪くない暮らしだったかもしれない、ですね。でも、……南美川さんも僕も、ペットの動物じゃないんですよ。だから」




 わたし、も――。




「……帰って、いいですよね?」

「よくない、ですね」




 沈黙。――張りつめている。




 シュンはこんなときなのにちょっとだけにやっと笑った、ああ、ああ、これよ、この表情よ、見た、見たことあるもの、――このひとはときどきこうやってわたしにわからない顔をする。

 どうして、いま、こんなときに、極限的に大変なときに――そんなどこか愉しそうな小さな笑みを、覗かせることができるの?




「……僕の、ボタン。きっと、あなたがたが処分してしまったんでしょうね」

「し、ま、した、ね。あの、かわいいボタン。おもちゃみたいに、かわいいから、おもちゃかなって思ったら……なんだ。責任通報せきにんつうほうボタン、でした、か」



 襲いかかってきたときに、さっきも化が言っていたことだ――ボタン。

 ボタン、ボタンって……なんのことだろう?


「……でも、あれじゃ、やっぱり、かわいい、おもちゃ。かも」


 化は淡々と言う。抜け目ない、――そんな自信が根底では溢れに溢れているのであろうその話しぶり。


「……責任通報なんて、倫理監査局につとめるお父さんとお母さんがいるんだから、そんなの――」

「……たとえ話をしましょうか? 弟さんみたいな優秀者のひとに、僕なんかが説明するなんて、ためらわれますけど……」


 化はぴたりと口を閉ざしたみたいだった。



「……もしあれが全責任クローズドネット開示要求ボタンだったら、どうします?」



 化が、はっとしてた、両腕をだらんとさせたことでそれはわかる、

 驚いている、――この天才的な弟が、おそらくいま心底驚いている、シュンの、けっして相対優秀者とはいえないシュンの、言動に、




「……そんなわけ、ない」




 ほら、ほら、――つぶやく声色までもがもはや必死になっている!

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