狩理くん(1)煙草の時間
……お昼は、静かだ。
きのうも、そうだったけど。
わたしがいたころもそうだったけど、この家には日中はだれもいない。
だから、犬小屋めいた部屋に放置されてるわたしたちは、ふたりきりでいられる。
余裕よね――脱走なんかしないって、できっこないって、そう思ってるって……ことだもんね。
けど、いいの、もう、それでも、……いいの、
シュンとふたりきりでいられることのほうが、いまは、すくなくともいまはとっても、だいじ、
おしゃべり、したり……ときにはちょっとだけ、踏み込んだことをおはなししたり……おしゃべりしているうちに、午後は、ふたりでうとうとしちゃったりして……。
幸せだった。
かりそめかもしれない。
けれども――幸福感に、つつまれていた。
……しいて言うとすれば、おなかがすいて喉がかわくくらい。
わたしは、平気だけど。……平気じゃ、ないけど、施設に比べればらく、だから……。
けどもシュンはつらかったと思う。そんな思い、ここに来てからはじめてしたはずだから。……最初にシュンを大規模にいじめた高二の夏のあの泊まりがけの行事、あのときもひどいことたくさん、した、けど、……ごはんとおみずは、とってたもんね。
……あはは……いじめたわたしが、そんなの比較できるわけもないんだけどね――どっちがましとか、わたしはごはんとおみずは奪わなかったとか、違う、違うわ、……そんなレベルで考えることそのものがもう、人間に足りてなかったのかもしれないわよ、ねえ、……わたし……。
だから、だろう。
シュンも、……そしてわたしも、けっこうだんだん弱りつつ、あって。
だから、だから。
かすれ声でしゃべっては……小さくさざ波のようにふたりして、笑って……そしてすぐに体力がなくなってしまって、眠った……。
幸福感につつまれている感覚は、あるいは、――弱りすぎてわたしたちがともに見ている唯一の夢か幻想みたいなものかも、しれない。
優しくて、とても優しくて、だから、こんなに、……泣いちゃいそうで、ね。
やがて。繰り返して。それでも時は、きっと過ぎてる。
……日が暮れなければいいのにって、思った、けど――ガチャリ、と鍵を開けて、……帰ってくる気配がする。
たしかにそのときにはもうすでに午後の光は夕方のそれへと溶けはじめていた、きっと、帰ってくる、また、……ペットの犬としての時間が、はじまる。
つらい、ときが。……わたしが、わたしだけがシュンをまもらなくっちゃいけない、ときが。
★
最初に帰ってきたのは、やっぱり狩理くんだったみたいだ。ガチャリ、と控えめに鍵を回す感じも、そのあと一階のリビングであくまでも最小限の足音や物音だけを立てて、しばらく静まりかえるところも、そう。
きっといま狩理くんは、キッチンルームの壁にもたれて煙草を吸っている。煙を吐くときだけちょっと上を向いて、けどたいていはずっとうつむいて、どこかよくわからないところを見下ろして。
スマホも出す。けど、狩理くんがそうするのはかならず一本は煙草を吸い終えてからのことだった――帰宅してからのまず一本めを、狩理くんは、ゆっくり、じっくり、なにかを味わうようにして吸ってた。
……わたしが、狩理くんと対等な人間であり、婚約者であったころ。わたしたちは国立学府に入ってもいっしょに帰ってくるタイミングも多かったから、狩理くんのそんな横顔もなんどもなんども数え切れないほど繰り返し眺めてた。
十八歳でかつ高等学校を卒業すれば、
そこまでは当時のわたしも理解できたけど、問題はそのあとだ。狩理くんはすぐに煙草免許を取りに行った。
飲酒免許ならまだ、わかった。わたしも取ったし。けど、煙草はよくわからなかった。いまどき煙草を吸う同年代なんて、ほんとうに少ない。
煙草というのは、旧時代の、しかもそのなかでももっともっとむかし、人類史の前半部分にさえ見られたらしい。悪しきストレスの解消の手段だったのだろう、……そういう成分もたしかにあるし。
けど、けど、現代だ。ストレス解消の手段だって、優秀者であれば、旧時代なんかよりもずっとずっと、あるのだ。わたしはそのとき狩理くんにそう言ったけど、狩理くんはひっそりと笑った。
『……ま。幸奈は、吸う必要ないんだろ。いいんじゃねえの? ……御宅のそういうとこ、俺、眩しいよ』
……あのときは、てっきり褒められたのかとばかり。
そして、なぜか狩理くんがわたしのことを、なんらかのなにかでうらやんでくれてるって思って、わたしは、馬鹿よね、……舞い上がった。
……いまなら。人犬の身に堕とされたいまなら、わかる。
狩理くんがどうしてものみこめきれないいろんな思いを、絡ませて絡ませて自分で身動きがとれなくなったほど、心に、いだいてた、こと。
……ひとを犯しに犯して、あげくのはてには巻き込んで自殺した重犯罪者の遺した息子。ずっと、ずっと、そのことを抱いて。そのことに巻き込まれて、……生きていたのよね。
ごめんね。狩理くん。あのときには――わからなくって。
わたしは、世界の明るい半分しか、……見えていなかったんだよね。
……犬になってからだよ。こんなことになってからさ。
いろんなこと、わかってきたの、ねえ――皮肉でしょう? 滑稽でしょう?
だから、わたしのこと、ゆるしてくれない――? だなんてわたしはもちろん、言う権利は、なくて。
……トットットッ、とその印象と反して弱々しい足音が、階段をのぼってきている。
わたしは耳をピンとさせた、狩理くんが――来るから。
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