ぽんぽん



 ……シュンは、がんばって、食べてくれた。

 ごはん……わたしはごはんって呼ぶのよそれを、

 エサ――だなんてけっして呼ばない。そう、この家の、……わたしよりもずっと優秀だったのであろう家族だったひとたちが、いくら馬鹿にしたようにエサだとか言ったとしたって、わたしは、……ごはんって呼ぶ。

 わたしを、生かしてくれたもの。

 あなたを、生かしてくれるもの。

 味はほんとうに不味いけど――それより、それより、……生きなきゃ、シュン。

 これからどうなるかなんてわからないけど生きなくちゃ――わたしだって、わたしだって、……生きていたからあなたと、会えたの……。



 ぶちまけられた固形物はまっさらになくなっていた。

 ぜんぶ、……食べて、くれたのだ。

 ペットフードだろうとなんだろうと、ひとりぶん、たしかに用意されたそれを――。




 いつのまにかスズメの鳴き声が断続的になってきて、光の差し込む角度が高くなっている、朝はきっともうすぐ終わりだ、午前、……家族の気配はするけれど、くぐもっていて……この部屋には、やってこない。

 なんどか真や化が廊下の外を通っていく音がした。そのたびわたしは身体をまるめて耳をそばだてて、小さな犬の身体でもシュンの大きな身体にかばうようにのしかかった。けど、……来ることは、なかった。

 音と気配からして、真と化は学校に、狩理くんは職場に、行ったみたいだ……パパとママは、……わからない、あのひとたちはいつもなんでか、気配が、ないの、気がついたらいなくなってたり気がついたらいたりで……だから、だからいまも――気は抜けないのは、ほんとなんだけど。


 ……けど、いまのところは、

 ……台風のなかの、目のごとくとでもいうのかな、

 奇妙に、静かで――ふたりきり、で。



 わたしはシュンの身体の背中におおいかぶさって、

 背中を、肉球で、ぽんぽん、……ぽん、ぽんって、してる。



「……シュン……」


 シュンは、身体を折り曲げ気味で横になってる。

 相変わらず、つらそうだ。

 でも、心なしか、……呼吸の苦しそうな感じが柔らいできている気がする。目はとろんとしているけど、お熱のせいというよりは眠たいのかもしれない。眠たいってことは、おなかいっぱいってことなのかも、だとしたらいいのだけど、ほんとうにほんとうに――いいのだけれども。


「……シュン……シュン。……シュン……」

 言葉とともに、なんども。ぽん、ぽん、……ぽんぽん、ってさ。なんども。なんども。……肉球の爪がなるべく当たらないように、柔らかく、……そのブレザーのうえから、ね。


 シュンから言葉は返ってこない。

 しょうがないの。いま、このひとは、……とてもつらいんだから。


「……ねえ、シュン……」


 だから、責めるためではなくて、ましてや嘆くためでもなくて。

 語りかける。なるべく優しさになるように。わたしなりに愛おしんでいる気持ちが、伝わるように。こんなわたしに、……犬のわたしに愛おしまれたって、人間のあなたは――しょうがないのかも、しれないけれどさ。


「あなた、ほんとうに、……十七歳に、戻っちゃったの……」


 返事は、ないけど。ぽん、……ぽん。


「……そうなのね……シュン、あなたはきっといま、十七歳で、高校二年生で……わたしに、いじめられていて……なんでだろうね。ねえわたしたち、それでもいまさ、再会して、ここはわたしの実家で……あなたはわたしを飼ってくれたの、二十五歳になってたあなたがね、でもあなたは……十七歳なのね、もういちど、――そんな思いをさせているのね」


 それはぜんぜん楽しい話でもなんでもないのに、

 わたしは気がつけば、ふふ、と小さく笑っていた。

 わずかな吐息は、シュンの背中にかかるようで。


「……あなたは、ずっと、こんなに、いい子、ううん――いいひと、だったのにね――」

「……南美川さんは」


 シュンが、……しゃべった。

 わたしは、喜ぶよりも先に耳も尻尾も背中もびくりとしてしまう。



 シュンは苦しそうな息を吸っては吐き出しながらもそのなかで、たしかにしゃべるの、



「……南美川さん、……も、僕が思っ、ていたような性格悪いギャル女子ってだけ、じゃ、……なかったようじゃない、ですか、……怒り、ますか?」

「ぜんぜん……ぜんぜんよ、怒るわけないじゃない、その通りだもの、シュン……」

「……じゃあ気持ち悪いこと言ってもいいですか……」

「いまさら、そんなの……なんでも言ってちょうだい」

「……ぽん、ぽん、って、いま僕のこと、……叩いてくれて、て……」

「肉球よ。……ほんものだもの」

「ああ、――やっぱそう、なんですね、僕の夢、……とてもよくできて、るから……。

 小さいころ、ほんとうに子どものころ、……僕も母さんにこうしてもらったんです。あ、えっと、……ごめんなさい、気持ち悪いですよね、高校生なのに……マザコンキモいってことですよね……」

「そんなこと、ない。思ってないから、続けて」

 シュンはなにかだいじなことをしゃべりたがってる。そう、感じた。このひとが、しかも十七歳のこのひとが、……こんなにここまで自分から、しかも本音っぽいものを――頼まれてもないのにしゃべり出すだなんて。


 いっしょに暮らしてわかったのだ、このひとは、高校時代にわたしのいじめていた来栖春って人間は、……ほんとうに本音をかわすんだ、ってこと。

 ぺらぺらしゃべるようにはなっても、なんかほんとうにいちばん奥底の本音みたいなことは、言わなくて。

 あと、……あと、家族の話題とかも――ずっと、避けていたから。もはや、不自然なほどに。



 だから、……きかなくちゃ、って。

 自分から――語り出して、いるの。



「……小さいころ風邪を引くといまの南美川さんみたいに母さんが背中を叩いて、くれました。

 母さんは……ずっと、優しくて……いいひとで……ほんとうに母親やってるひとって感じで……」

「……いいお母さんだったんじゃない」

「……はい。いい母親すぎて……よすぎて……」


 ハハ、とシュンが小さく笑った気配がした、自嘲的に、あ、――わたしのよく知った笑いかただ。

「……ほんとうに僕の家族はみんなとてもすばらしすぎて、」



 ……うん、と首で小さくうなずく気配、……シュンのよくある癖のひとつ。



「あなたにいじめられていることさえ、……言えなくて。

 きっと、言ったら僕のこと、考えてくれて……助けてくれて……。

 それなのにどうしてですかね南美川さん、僕、は、」



 もういちど自嘲の気配がした。

 わたしはぽんぽんすることを繰り返す、



「……そんなに優しい母さんが、風邪の僕の背中をトントン叩いてくれて、……ありがたいんだけど、ありがたすぎて、……逆に気を、遣っちゃって、

 嬉しいのは、……そうなんです嬉しいんですよ、ヘンですよね僕、気持ち悪くて、なのに、なのに、なのに――


 ……夢の、あなたに、こうされて、

 どうすればいいんだ、どうしてこんなに、……嬉しいんですか、

 いじめてる、ひとなのに、どうして安心、できるんですか、母さんよりも、……親、よりもだぞ、


 ごめんなさい、僕は、ほんとうに、ヘンなこと、ばっかり、」

「いいのよ」


 わたしは、シュンの耳もとでささやいた。……食むくらいの距離で。


「あなたは、お熱なんだから、……好きなことなんでも言っていいの、変なことでも、なんでもよ……」



 ……シュンが自分の家族に対して言った、すばらしすぎるっていうのは、きっと、わたしとは真逆の事情なのだろう。

 わたしの家族だってすばらしすぎた。でもそれは、皮肉の意味でしかないのだ。あんな、はちゃめちゃな家族、まあすばらしかったよねえって、そういう、……そういう、ことで。



 こう言ったらなんだけど、

 シュンは、高校の自分の進路決定で失敗して……引きこもって……

 そんな経歴の人間をかばうことはけっして容易ではないはずなんだ、


 それでもシュンは、人間でいた。




 うらやましかった、……ごめんねわたしは内心そのことはけっこう妬んじゃいそうなほど、ちょっと、うらやましかったんだけど、

 そっか、そうなのね、ごめんね、そうよね、――あなただって苦しみがなかったわけが、ないんだ。そんなことは気づいてしまえば当たり前のことだろうに、……なんでだろうわたしはいっつもこういうことに、気がつかないのね……。

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