思いやり
「……南美川、さん……」
這うような格好のシュンは、いまもつらそうなのに、――うわごとみたいにわたしを呼んだ。
相変わらずとろんとしている目は、人間なのにとても低い位置にあって、でもそれはこのひとが高校のときからずっとしてきた体勢だから、馴染みは、あるから、……わたしはほんとうにやりきれなくなる。
……あ、でも、おもしろいのね。
シュン、あなたもいま、這いつくばってる目線だから……そっか、そうなのね、……犬の四肢投げだしてるわたしとおんなじくらいの目線なの、あなたのほうが胸をちょっと反らしているだけ、高いけど、
でも、……近いのね、シュン……。
……シュン……。
わたしは、うなだれた。――直視できない。このひとの、ことを。
だって、このひとは、なにも悪くなかったの。
高校のときからそんなのもうずっと、そうだったのよ、ねえほんとはそうだったの、あなたが、……劣等なことは、かりにそうだとしても、悪くない、悪くなかったの、……あなたはほんとは人間だった、そんなことさえわからなかった、わたしが……悪いの……。
それは、いまもそうよ。――わたしのわがままのせいであなたは……あなたまで、この家にとらわれた。
もうおとななのに、なんでか高校の制服、着せられて……なんでかお熱出して、つらくて、それに……トイレさえ我慢して、でも我慢が限界で、それで、それで、そう、そうよ、
――殺してとまであなたに言わせる状況をつくったのは、わたし。
高校のときも……いまも……。
……おおげさね、って笑っていたの。そんなことない。
わたしだって、施設でなんど、なんど、……殺してって叫んだことか……そしてそのたび、あんな目に、あんな目に……遭い続けて……。
……わかって、いるのよ。
わたしの、せいなの。
それなのに、それなのに、ごめん、――ごめんね、
わたしはいまあなたにあんなにみっともない犬としてのおもらし、見られたんじゃないか、って、
見られてたとしたら、やだ、やだよ、もっと泣いちゃう、ううん現にいま涙があふれ続けてる、
ごめんなさい――そうやって、まだ、自分のことばっかり気にしちゃって、
……自分のことばかり、なのよ、わたしは、
「……うぇ……うえええぇ……う、ううっ、ひっく……ううっ……」
……あなたのことを慰めたい気持ちもほんとう、だったらぺろぺろ舐めるのが先のはずなのに、だめなの、涙は止まらないし四つ足で立ち上がれない、身体が言うこと、きかないの、ただただ……おしっこみられた、って思っちゃう、思っちゃうのよ、わたし、わたし……女の子なのに……。
わたし、わたしね、雌犬じゃないよ、……まだ若い、女の子なの、
女の子なはずだったのにあんな格好であんなこと――
……あはは。まだ、わたし、すがってるんだ……自分の、人間のこころに。
犬、だよ、わたしは、……雌犬でしょう。あんなこと……させられてさ……。
……女の子だったらまずそんなことにならない、よね、……あんなこと……。
「……う、うっ、ううっ、うううっ、」
わたしは、ひたすら、しくしくしてる――そんなときだった。
「……あ、の、南美川、さん、あ、あの、……あの……」
「……なに、よ、」
ああ、ほらわたしまた、シュンは、シュンはなにも悪くない、それなのにこんな不機嫌そうな声――出しちゃって、だめね、だめな子ね、わたしは――ほんとうに。
わたし、顔、上げられない。
……返事が、返ってこない。おとなのシュンと、違って、……そうよだってこのひとは心が十七歳に戻ってしまっているの、
あなた、悪くないのに、わたし、わたし――自分で不機嫌そうに、言った、くせに、
「……ねえ、シュン、なんでなにも言ってくれないのよお……」
わたし、そんなこと、ああ、ねえ、――わたし、
「あなた、わた、わたしの、み、……みた、見たんでしょ、わ、わたしが、あんな、あんなふうに、おも、おもらし、……させられて、わたしが……わた、し、わたしは、わたしは、だって、だって、でも、わたし、……う、ううう……」
「……ごめんなさい、あの。僕には、よく、……わかってないんですけど……」
その声が、すこしだけ、そうほんのすこしだけいまの、わたしを飼ってくれてるシュンに近いものだったから――わたしは、考える前に、顔、あげちゃってた。両方の耳もピンとさせて、ぴくんとして……。
シュンの表情は、でも、――高校時代のものだった、脅えていて……でも、ふしぎそうで――ああ、ああ、……まただ。わたしがさんざんシュンのくせにナマイキといったあの昏い光が、さっきほどじゃない、ほんのわずかだけど、たしかに、……ここにある……。
やっぱり胸をすこしだけ反らすように持ち上げていて、
脅えてためらってそれでいてどこか興味をもったような顔してシュンは、
……言う瞬間ぎゅっと眉間に皺を寄せた、
「南美川さんも――いじめられてるんですか」
わたしは目を見開いて思わず四肢を投げ出す格好から、伏せ、しちゃったの、……シュンのほうに顔を向けたら尻尾までもがピンと立った、
「……あ、あの、ごめんなさい。その……僕、と、……南美川さんは、えっと、ん、その、……違う、んですけど、その。……あの……」
「いいわよ。なにか、言いたいんでしょ、わかるわ、……言ってみてよ」
「……おこ、りま、せんか。あとで、……僕に、ひどいこと、しませんか……」
「しないわ。……できるわけないもの。こんな――身体で」
そして、こんな――こころでは。
「……はい。じゃあ、えっと。……あの。
南美川さん、は、僕を、……学校で、いじめ、ますけど……」
シュンは、咳き込んで。……わたしは、左の前足を、ちょっとだけ前に出して。
「……もし、かして、おうちじゃ……いじめ、られてる……? です、か……? ……えっと。
だと、したらその……なんだろ。……僕が言うのも、ヘン、ですけど、」
シュンはまた咳き込んで、
わたしは……右の前足も、出したの、シュン、――ねえシュン、
「――つら、く、ないですか」
わたしは前足を両方とも伸ばした、――こんな短いケモノの足じゃ、届かないこと、わかってる、
だからわたしはあなたに届かない問いかけをいま、思っているの――
シュン。あなたは、なんで、……なんで。
どこで、どうやって、……ひとのことをそうやって思いやることを、覚えたの?
ううん、わたしが知らなかっただけで、あなたは、十七歳のときから……ほんとうに、ほんとうは、そういうひとであって……。
わたしがあなたをいじめたの、
そしてあなたは心を壊して、……たしかに悪夢を見るほど傷ついて、引きこもりに、なって、
……大学でとってもがんばって、いまは立派な社会人に、なって、
わたしのことを助けてくれたの――あなたは、あなたは、……きっとほんとうはもともと、ひとのことを、こんなにも思いやれるひと……。
ああ、――違う涙があふれるの。
どうしてかなあ、……どうしてかなあ。
ねえ、シュン。教えてよ。どうすればあなたみたいに――人間にふさわしいこころを、わたし、もてたんだと、……思う?
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