きたないものが、きたないなあ
「……おしっこ、したいの?」
シュンは苦しそうにうなずいた。……顔も、心なしか赤くなってる。
どうしよう――どうしよう、
だって、だってわたしあのときと、高校のときと違うもの、
あのときだったらわたしが許可さえすれば、シュンはすくなくともひとりで立って歩いて教室を出ていって、ひとりでトイレを済ませて、廊下を駆けて息を切らしてあっても、ひとりで、そうすべてをひとりで済ませてくることができた。
でも、いまは――
……いまは。
おすわりの姿勢のわたしは、うなだれた。耳もぺったり、垂れていく。
シュンの、そばで……主人を心配する犬みたいだね、ううん、みたい、ではなくまさにそうなんだから……。
……わたしね、そうよね、あなたにあのときひどいこといつも命令してたの。
自分であなたのトイレをむごく許可制にしていたくせに、
シュンがトイレに行きたい、って言うのをね、いつも高みから嘲笑った。そんなに出したいのかよー、とかゆって、……なんか卑猥な意味みたいにさ。
それは、そうだよ。……生きものなんだから、出すものは、出すんだって。そんな当たり前のことを、わたしは……高校生の男の子に、あんなにも、馬鹿にして……。
ねえ、あのときのわたし、キラキラした女の子でしかなかった、わたし、教えてあげるよ、……あなたもやがてはそうなるよ、排泄することさえひとに管理される、ううんシュンよりずっとずっと自由のないそれになるんだよ――犬っていうのは排泄するところを隠す権利すらないんだから。それは、そうでしょう? 犬なんだから――動物なんだから。
施設で、さ。……トイレの訓練も最高に惨めで、もうだんだん、笑えてきちゃったな。……おかしくなって思わず笑っちゃうとわたしはいつも電流のお仕置きを受けたから、そのときにはびくんびくんと身体がけいれんするみたいに跳ねてうめきながら、ほんとうに、わたしは、動物みたいに垂れ流してた、前も、後ろも、……人間は食物を取り込んで排泄するだけの筒でしかないなんて冷笑したような表現、人間時代には否定していた表現が、妙に、納得できた。……前からも後ろからも、制御がなければ、こんなに、でてくる、……きたないものが、きたないなあ、って。
それに……わたしは犬になってからやっと理解できたの、……食べることや、眠ることや、トイレすること……そういう、生物として必要最低限のことをいちいち監視されたり観察されたり、……一挙一動叱られたり笑われるって、ああ、こんなにもひとつひとつが衝動的に死にたくなる大きなかたまりと、なって、うるさい、うるさいうるさいよお見ないで、見ないで、わたしが生存しようとしているだけの行為をそんなにもあさましいねって言うような視線で見ないで、見ないでよお、
しょうがないじゃない食べることだって眠ることだってトイレすることだって、わたしは、調教施設のやつら残らず殺したい気持ちでそう思ってた、そういうのをはてしなく思えるほど繰り返したある日、わたしは、ふっ、と気づいたんだから、――気づいたんだから、
犬は、ペットは、……つまり人間の玩具っていうのはそうよね、そういうものだものね、ってことに。
なぜなら――わたしだって、高校時代にいじめたあの男の子の、食事、睡眠、排泄、――すべてを日常的に観察してひどいコメントして、嘲笑って、――暴力だって課していたのだから。おなじだよ。……人間とも思えない調教師たちと、わたしは、おなじだったの……ただ高校時代は、――わたしがなにかを決定的に致命的に勘違いをしてた、だけ。
……だから、ね。
高校時代、わたしはいつもシュンにこう命令してたの。
……制服すがたで、机に座るわたしの足もとにちょこんと正座して、頬を上気させて――というのはたぶん、……漏れそうなの、それでも必死に我慢してたから。漏らせばわたしたちはもっと盛り上がってシュンを辱める――そのことをあのときのシュンだってわかっていたから、たぶん、わたしにトイレの許可を取るのは、あのときの彼にとっては命がけのミッションだったのかもしれない、
ううん、おもらししても死にはしない、そのことをどこまでも馬鹿にされても生命はそのままだ、――だって人犬になったわたしだって生きてはいるんだから、なぜか、ほんとうになんでだか、
だから……命はかかってなかった、かもしれない。
でも。……でも。
尊厳はかかっていたはず、なの――ひととして、の。
自分の、生物的生存条件くらい、……自分で管理したいって、あのひとは、あのひとは、――あのときなんど思っていたのだろう。
足元にそうやってひざまずいていたシュンの頬を真っ赤なヒール靴のヒール部分でトントンとかわいがりながら、わたしはニヤニヤして、いつも、言っていたんだもの。
『トイレ行きたいのはあ、仕方ないけどお、自分はハズカシーことしてるって自覚してね? シュンのくせにおトイレ行きたいなんて気持ち悪いよ、シュンのくせに、あははっ、――ねえそうだよねえ、みんな!』
みんな、もうなずいて楽しそうに笑う。シュンがすこしうつむいたのをわたしは見逃さない。その顎にヒールを滑り込ませて、無理やりに頬を持ち上げる。涙目になってるのがもうおかしくておかしくて、わたしはぷっと噴き出してしまう。
『やだ。泣くほど、トイレ行きたいの? きっもちわるいー、赤ちゃんみたい!』
『……きょ、うは、朝から行かせてもらってないから、』
『いかせてもらってないだってー! あははは!』
そういうの、そういうの、そういうのああ嫌だ、――わたしはわたしがほんとうに嫌だ、
そういうのをもうずっとずっとずっとのんべんだらりと、薄められて永久的に続く地獄のように、教室でずうっと、繰り返して、
――最終的にわたしは許可するのだ、
『はーい、じゃあシュンくんおトイレ行ってきていいよー!
……でもおまえ恥ずかしいことしてるんだからさあ、こう、ボクはこれからトイレに行くんですーってアピールしながら行けよ、この学校のみなさまがたはさあ、一年も含めてほとんどシュンより優秀なワケ、だからみんなは全員トイレくらい自分でどうにかできるんだけど、シュンはそうじゃないからさあ、わたしたちが管理してやってるの、ね? ――だから感謝しながらそのキッタナい股間両手で抑えながら、ギャグみてえに行ってこいよ。――嫌ならここでいますぐ出せよ、勢いよくねえ――って、ええ、狩理くうん、言い過ぎい? そんなことないでしょお、だってえシュンだよお、あははっ……えっ、ほんとにここで漏らしちゃったら困るだろって、あー、そっかあ、それはそうかもねえ……』
……死にたい。ううん、殺したい。わたしは、わたしを。
そうやってサイテーに同級生の男の子をいじめていた黄金時代から、五年ほどが経って、
……わたしは泣きながら犬のように、ううん、――犬として、おしっこもうんちもすること、強いられるようになるんだから……。毎日、毎日、くる日もだよ、――おトイレなんか使用する権利さえもなかったの。
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