噛みつき

 バン、と扉が大きく開け放たれた。

 ピカピカにっこりな笑顔の南美川真と――

「おっまたせえー。手も足も出ない幸奈ちゃんを連れてきたよおー!」


 南美川さんだった。ちっちゃい身体の、人犬の。……妹に抱きかかえられてたって、こんなにも小さいんだ……。

 南美川真の片手でまるでぬいぐるみみたいにお尻のあたりを抱きかかえられながら、目も鼻も真っ赤で、ぐったりとしている。拗ねたように視線を逸らして、すん、すんすん、といくどもいくどもすすり泣く。――いじめられたのだろう。


 でも僕は思った、ああ、ああ、――無事でよかった。

 南美川さんがなにかされたことを考えるならば、無事と言い切ってしまうのもあまりにも残酷なのかもしれない。でも南美川さんの表情は、……僕が見るかぎりではまだ、がんばってくれていた。泣き喚いたりせずに、悔しくとも、屈辱でも、どうしようもなく涙があふれて流れてしまっても、すくなくともそれを抑えるという姿勢。

 それは――人間のやることだよ。そうだよね、南美川さん。



「南美川さん、」

 僕は立ち上がり手を伸ばそうとした、だが両腕のあたりがつっかえる、なんのことはない――そうか僕は拘束されている、から。


 峰岸くんは煙草をジュッとチューハイの空き缶で消した。

 そしてつかつかと、カーペットにしたってやけに足音のしない歩き方で、南美川真、いや、――南美川さんのほうに歩み寄った。

 南美川真はにいと笑って後ろ手で扉を閉めた。そしてそのまましゃがみ込み、まるでほんものの犬にそうするように、「ほーら、ほらほら」などとあやすように言いながら、南美川さんを――カーペットに、放した。



 四つ足の南美川さんが四つん這いで峰岸くんを見上げている。

 峰岸くんは、その場に立ったままだ。酒を呷ることも、煙草を吸うこともなく。――もっともいまこのときまでにそうとう飲んで、吸っているはずだけれど。



 南美川さんの見上げる視線は、つらそうでいてなんだかただつらそうというわけでも、なさそうだった、なにか必死な顔をしている……。

 犬の身体で。――自分を見捨てた幼なじみ兼婚約者と、おそらくはじめて、再会をして。


 峰岸くんの表情がはじめて隙を見せた。引きつるような頬は、でもたぶん馬鹿にしているのではなく。つらそう――そう、そうだ、峰岸くんのほうが、むしろその形容にふさわしい表情をしていた。



 ふたりは、あまりにも差のある高低差で、それでも長いこと、見つめあっていた。

 高校時代にこのふたりが見つめあっててもそれはそういう上位者どうしのものだとして、僕はある意味ではなんとも思ってなかっただろう――まさか、まさかこんなふうにふたりが見つめあってて、それをこんな気持ちで見つめている僕の、こんな、……気持ち、そんなものはもちろん高校時代の僕には想像さえもできなかったことだ。


 南美川真はその場にしゃがみ込んで、あぐらをかいて両方の頬を腕で支えて、成り行きを見ている。



「……幸奈、さあ」

 先に口を開いたのは峰岸くんのほうだった、――ずいぶん緊張した声色で。

「……かわいく、なったんじゃん。ハハ。もともと幸奈は見た目もいいし、まあ、愛玩犬にでもなるかなって思ってた……」

 南美川さんはなにも言わない。ただ、峰岸くんをじっと見上げている。それは奇妙にも犬らしい仕草だった――犬は、じっと見上げてくる生き物だということを、……迎えたてのあのころの南美川さんの仕草から、僕はそう教わった。南美川さんが調教施設で教え込まれたそのことを、僕は間接的に教わることになったのだ。

「……ずっとさあ、かわいいなって、思ってたんだよ。幸奈のこと。それは、ほんとだ。会ったときからだよ。なんてかわいい女の子なんだろう、って。だからさあ、俺さあ、子どものころからさ……いまもさ……おまえが、俺より下のやつだったらどんなにかわいがれたかって思って――」

 ……峰岸くんは、南美川さんよりもさらに成績上位者だったはずだ、けれど――そういうことでは、ないのだろう。


 峰岸くんはしゃがみ込んだ。

 そして南美川さんの、三角形の耳が生えた頭に手を伸ばそうとした――ああ、耳をそうやって潰すように撫でようとしては、いけない、南美川さんはそこが気持ちよくないんだ、



 けども南美川さんの行動のほうが早かった。

 南美川さんは――峰岸くんの平たくて大きな手を、その小さな口で、……噛んだ。



 噛みついた。



 え、と声を出して戸惑う峰岸くんの手を、かぷ、かぷり、と南美川さんはなんども、噛んだ。

 峰岸くんが困惑してばかりで手を引っ込めないところを見ると、おそらく噛む力はずいぶんと弱いのだろう。強く、……噛み切れないのかもしれない。さすがに。



 けどもその仕草にはあきらかに拒絶の意思がこもっていた。

 南美川さんはなぜか言葉をしゃべろうとしなかった。人間らしく言葉をしゃべることだってできるはずなのに、なぜか、言葉にたよらなかった。ただただほんものの犬のように、噛みつき続けることだけで、なにか言いたいことを強烈に痛切に主張していた。


 噛んでは、口を離して、閉じる。そしてまた決心したように口を近づけ、口を開き、含んで、噛む。

 かぷかぷ噛みつくだけだなんてまさしく動物らしいことをなしながらも、いや、だからこそだろうか、――いまの南美川さんはとても人間らしかった。



 表情、だろうか。

 噛んでは、離し、噛んでは、離し――そんな動作のなかで、南美川さんは、あまりにもあまりにも悔しそうに、涙をぽろぽろ流して、なにかを否定するかのようになんども首を横に振ってた、――言うまでもなくそれは動物のする動作じゃ、ない。

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