蝶々を相手にした者どうし
気持ちがやけに大きくなっているのは、酔いのせいか、あるいは僕は見越してちゃんとある程度の準備をしていたからゆえなのか。
それとも、もしかして僕のこの気持ちは、ほんとうに、ほんとうのほんとうに真実、――南美川さんのことで怒っているのか。
僕は、いま、……ひとのことでこんなにも気持ちがどうしようもなく煮えているのか? そもそも僕は、イライラするとか嫌な気持ちになるとかそういう感情は経験があるけど、ここまで明確に怒ったという経験、なんて、いままでにない。
自分の心がこんなにも熱をもって暴れていることがただただふしぎだった。かぶれた学生みたいなこと思ってしまうけど、ああ、これが怒りなのかなって……。
「……僕が、いくら芋虫とか蛆虫でも、いいけど」
自分で言ってる声なのに自分でも内心ぎょっとするくらいだ。
両手が、――いまも拘束されて動かせない両手がもどかしい。わかっていても、僕は身じろぎするようにぎゅっとその手を外そうとする素振りを見せた、拘束する役目をこんなにも果たしているバンドのせいで、両手はまったく動かせないのだけれど。
「……アンタは、南美川さんの、婚約者だったんじゃないか。
なんで、南美川さんのこと、――そんなふうに言えるの」
「おっ、なんだ、キレたのかよ」
「キレてるよ!」
僕は、泣き喚く以外じゃおそらくはじめてなんじゃないかってくらいに――ひとに対して、大声を、出した。
「ああこれがキレてるって言うなら、キレてるよ。だって南美川さんのことを、……ヒューマン・アニマル加工なんかにしようって思ったのは、けっきょく、峰岸くんとかこの家のひとたちなんだろう? この家のひとたちだって、……家族なんだから、子どもとかきょうだいにそんなことしようだなんて僕には理解もできないししたくもないけど、でも、でも、――峰岸くんだって婚約者だった!
仲、よさそうだったじゃない。いつも。僕なんかの底辺には直視することだってゆるされてなかったけどふたりとっても仲よしだったじゃない! 学年主席と、次席でさあ……僕があんなに惨めだった卒業式にふたりはあんなに華やかでさあ、目立ってて、――僕なんかにはあんなまぶしいとこ一生行けないんだなって思ったんだ!
なんでだよ。……なんでだよ。なんで、南美川さんのこと、幼なじみで結婚しようとまで言っといて、ヒューマン・アニマルにまでしてしまおうと思えたわけ? たしかに南美川さんは無邪気なところがあるかもしれない。でも……」
「……はー。こりゃ、驚いたな」
峰岸くんはそう言うと僕の拘束具となっているダイニングチェアをゆらり、と揺らした。そのまま、ゆら、ゆーら、となんだか不気味に動かし続ける。驚いた、なんて言いながら――その声色も表情もちっとも驚いてなさそうで、トーンもテンションも低そうだった。
「御宅さあ。ほんとにもう、幸奈に悲惨にいじめられたってこと、忘れちゃったわけ?」
「……覚えてるよ、そんなこと、くらい」
「や。そりゃ事実は覚えてるだろうよ健忘症になったわけでもないだろうし。――そんときのつらさとかって、忘れたわけ。
俺はねえ、忘れられない。忘れられないんだよ。……幸奈がキレイで無邪気だからって、そんな言葉で、いつでもあの子は――キラキラしてただろ」
「ねええっ。狩理くんはいつも言ってるんだよお。
姉さん――だったあのひとは、とてもキレイだったけど、キレイでも虫だったんだ、って。
……蝶々だった、って言ってるの」
南美川真がなにか甘そうな丸いお菓子を頬張りながら、いじるスマホから視線を外さないままそう言った。
「ああ。――蝶だった。あのひとは」
……ギィ。
揺らされる椅子が、一瞬、止まった。
「でも、蝶は虫でしかない。
でも、でもな、――蝶々というのは飛べるんだよ。
俺は虫ではなかった。幸奈が虫なら、俺は哺乳類の小動物くらいのレベルには達していたと思う。
でも――俺は飛べなかったんだ。ぜったいに。
……あいつみたいに飛べなかった」
峰岸くんは――わずかに、でも確実に、苦しそうだった。
わかる。……わかるけど。
僕は、視線を伏せた。身体が、熱い。両手も、赤い。
わかるけど、わかるけど、――わかるけど。
……でも、南美川さんは。
きっと、犬になったから、……ちゃんと成長できたんだよ。
そのことをどうこの学年主席に伝えようかって――
「……違う。峰岸くんは、あのひとのことを、……まだちゃんと知らない」
とんでもなく、直球になってしまったわけでして――
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