一触即発
映像は砂嵐のまま数秒して、ついにブツンと強制シャットダウンかのように途切れた。部屋の電気がついてもいないから、暗くなった。窓の外から滲んでくる灯りがせいぜい白っぽく見えるくらいだ。
峰岸くんがそこに立っているのはシルエットでわかるけど、煙草のこととかあと表情のこととか、この暗さのなかではよくわからない。その映像を見たあとに、彼がどんな顔をしてるのか、わからない、――なんども見せられたとは言っていたけれども。
南美川真はまたしても「Wake up,Neco」と言うと、小さな灯りをつけるように指示をした。映像を見る前までについていた白い蛍光灯とはまた別の照明。ちょこんと天井から吊る下げられた線香花火の先端をでかくしたような電球が、ふんわりとオレンジ色を真っ暗な部屋に滲ませる。僕だってなにもすべてを知っているわけでもない――でもその電球のあたたかさは、およそこの家庭に家族に、似つかわしくない、とは思った。それはたぶん――僕がこの家からすれば部外者でしかないから、そう思うだけなんだろうけれど。
そんなあたたかそうな灯りがついても峰岸くんの横顔は絶妙にシルエットのままだった、色濃く、黒をさらに色濃くして。
……むしろきっと彼の吐いてる煙だけがもうもうとその暖色を吸い込んで鮮やかに色ついている、
おそらくその吐いた煙に合わせて彼は言った。
「悪趣味だろう、真ちゃんも」
僕はどう答えていいかわからず、黙っている。煙はどんどん霧散していく。
小さく引きつった笑いの気配。
「これを見せれば間違いないって思ってんだからさ。ひどいな。ほんと」
しみじみとしてるのに軽快さもある口調で、なんだかおどけていて、だから――僕には峰岸狩理のその経験というのはいまだに残り続ける本物の傷の爪痕なんだってことが、わかった。――僕も高校時代にいじめられていたときにはずっとそうやって、意味もなくおどけていたものだから。
僕はまだ彼に対してそれなりにはっきりと残っている恐怖と、でも、それ以上にずっと大きな新しい感情のまま、問うた。
「つらく……なかったの」
「馬鹿言え。きつかったに決まってんだろそんなん」
はっきりと、きっぱりと、峰岸くんは言い切った。
「ガキのころからなんか変だな、とは思ってた。たしかにガキのころから南美川のお父さんもお母さんも俺に優しかったよ。でもそれはあくまでもひとん家の子に対してって感じだった。俺はこの家から歩いて五分とはいえまったくの別の居住スペースに、五歳のそんときからずっとひとり暮らししてる、……いまもだよ。いまは、まあまあこの家に来る頻度が高くなったけど、でも俺の住所も居住スペースもあんな地獄みたいなオンボロアパートの家畜小屋みたいな部屋だ。
俺はじっさいその映像のときにさ、……記憶を消された、っていうか消していただきましたわけだからさ、はは。気づかなかったわけですさ。……いっかい幸奈と結託して俺もいっしょに住まわせてくださいだなんて頼んでさんざんな目に遭ったなあ、や、俺だけがね。そういうときにも幸奈はお咎めなしなわけですさ。……理不尽だとは、思ったよ。
幸奈はなあ、ああ、いい子だったよ、いい子だった――だがなぜ御宅は幸奈をかばう?」
「……いい子だった、って、そっちも言ってる、のに、」
「――幸奈がいい子だったせいで御宅は高校時代に芋虫いや、蛆虫だったわけじゃないか。
まさか、もう忘れたの? 俺はねえ、俺はそんだったらむしろ御宅よりも覚えているのかもしれない。
御宅は這いつくばっているとき見上げるあの顔ね、ま、まずいちばんにくる印象ってーのはキモいねえってことだったけど、――御宅は悔しそうだったし恥ずかしそうだったし、ちゃーんと屈辱な顔してたよ」
「……そんな、ことは、」
僕はずっとヘラヘラ笑ったりオドオドしていた記憶しかない――そこまで、あのときの南美川さんに対して、反抗的になれるわけもない。僕自身はそう思ったが、峰岸くんはハッと一笑に付した。
「いいや。御宅の記憶の都合のいい被害者意識のことは知らんが、――御宅あんときゃたしかに幸奈を恨んでいただろう?
……そんな感情をもうきれいさっぱり忘れちまったというのか? そうか、そうか――幸奈が、ヒューマン・アニマルになったから?
……とてもいじめなんかできそうもない、どころかなにをしたって、犯したところでじたばたしたところでなあにも反抗にさえならない、かわいそうなねえ、そんなかわいそうなこぢんまりとした哀れな子犬ちゃんになっちゃったからかい――」
「――やめろよ」
酔いのせいも、あったのかも、しれない。
あるいは、……すくなくともいまここでこれ以上状況は悪くならないだろうっていう、僕の勝手な、計算というにはまだあやふやな――賭け。その力も、じっさい、……でかかった。
でも。でも。なんであれ。
「……南美川さんのことを愛していたのは峰岸くんなんだろ」
僕は――高校時代に自分をいじめていた人間たちのなかの、そのなかでももっとも尊敬されていた、そんなクールな学年主席に、
喧嘩を、売っていた。そう。――自覚は僕には、ある。
峰岸くんは赤ワインをさらに呷ってハッと哂った。
「――ああそうかいそうかい、俺もほんとは被害者だったってーなお涙頂戴ストーリーを聴きゃあ、俺でさえも、御宅のなかでイチコロかあ!
御宅さあ――あんがい、性格悪いんじゃないの? キモいだけじゃなくて、劣等なだけじゃなくって、――いじめられるだけの理由がなあーんかしらあったってことじゃないかい、俺には御宅のそーんな特徴なんか、見当もつかないけどさあ、だって高校のときってほんとうに芋虫蛆虫くんに見えてたし!」
バシャン、と赤ワインをかけてきた。僕はなにも言わないけど心のなかだけで思う、いいぞ、……いいぞ、
僕をいっそもっともっと酔わせてくれ。峰岸狩理。
南美川さんの元婚約者だったアンタに、僕は話があるのだから。
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