その映像(6)決死のプロポーズ

 小さな南美川さんを見た瞬間、僕の胸のあたりはドクリと跳ねた。

 南美川さんは、幼児のときからたいそうかわいらしかった。そして高校のときとおなじでこのときから自信に満ちたご機嫌な顔をしていて、そしていまと――サイズがだいたいおなじくらいで、でもこのときの南美川さんには、当たり前だ、……四肢がある。二足歩行だし、服も着ている。


 金髪に赤いリボンに、おそらくは生まれたときからほとんど切ることのなかったのであろう長めのツインテール。着ている服こそ黒くてシックな子ども用ドレスだが、その金髪と赤いリボンがゆらゆらと揺れるせいで、……たいそう華美な子どもにも、見えた。

 高校時代のキラキラした南美川さんを、そのまま幼い女の子にした感じだ。もちろんそれはほんとうは逆なわけで、この女の子が成長して、僕が出会ったときには南美川さんはすでにすらりとした金髪ギャルになっていた、というわけだが……。


 五歳の南美川さんは上品な仕草で、このベージュ色の小さな部屋の引き戸を閉めた。まだ背丈の低い南美川さんにとって取っ手はぎりぎりだったけど、ううーんとかわいくうなりながら背伸びをして、どうにか、届いた。

 南美川さんは手を背中に回してぴょこんと跳ねると、にいっとお嬢さまらしい笑みを浮かべて父母を見上げた。


『ゆきな、ずっと待ってたっ。おとうさんとおかあさんが、ゆきなにいいことおしえてくれる、っていうから』


 南美川父は立ち上がり、夫妻が並ぶ格好になる。南美川夫妻もその下卑た感じをまた一気に引っ込めて、柔らかく当たり障りのない表情を浮かべて自分たちの娘を見つめる。


『そうだぞお、幸奈。いいことっていうのは――この子だ』


 南美川さんはそこで初めて峰岸くんに気がついたかのように、ゆっくりと首の角度を降ろして、床にいまも這いつくばっている彼をきょとんとした顔で見つめた。そしてそれとおなじくらいスローモーションに――峰岸くんを、指さした。



『この、きたない子、なに?』



 ――ドク、ン。

 僕は自分が言われているわけではないのに、胸が締め付けられて一気に呼吸が苦しくなった。

 その感じというのは、僕にも覚えがあった、から。それこそ最初に会話を交わしたあの日、僕の成績表を奪い取って、僕の股間を蹴り上げて、

 ああ、そうか、南美川さん、南美川さん――



 あなたはほんとうに無邪気で自覚がなかっただけなんだ。むかしから、ずっと。

 僕が出会うまで、そして出会ってからもしばらくはずっと。

 ……だから、たぶん、峰岸くんに対しても、ずっと……。



『こらこら、幸奈。そんなふうに言ってはいけないよ?』

『えー、だってえ、この子ってすんごく汚い。なんか、くさいし。汚れもすごいよ? おふろ、入ってないの?』

『ふふ、幸奈、お父さんの言う通りよ? そんなこと言っちゃいけないわ。その通りなんだけどね。その通りなんだけど、でもそんなこと言っちゃねえ、いけないのよお、ふふふ』

『ええー? だあってえ、ほんとうのことじゃあーん……』


 峰岸くんは、うなだれた。どうしようもない、……どうしようもないだろうそんなことは。


 違ったふうに、見えてくる。

 僕の、南美川さんに対する想いそのものが変質するわけではない――ただその背景や事情は、ずっと、ずっと、……多面的なんだってことくらいは、僕はさすがにわかってきていた。

 そう、だからたぶん、このときの峰岸くんはあのときの僕ととてもよく似た――けども子どもであるぶん、いちおうはすでに高校生だった僕とは、もっと混乱が深い、……そんな思いをしているのだろう。



『でも、ほら、よく見ろ幸奈。この男の子の顔を』

 南美川父がもういちどしゃがみこんで、南美川さんを手招きした。

 南美川さんが興味と不審の半々ずつのような視線で峰岸くんをじろじろ見ていると――南美川父は峰岸くんの顎に手を差し入れて、無理やり上を向かせた。


『意外と、なかなかに、かっこいいと思わないか? ほら、目もとなんかすっきりしてるし……』

 南美川父はねっとりとした手つきで峰岸くんの目元を撫でた。や、と峰岸くんは声を上げかけるが、そこで嫌だと言い切ってしまえば状況が悪くなると思ったのだろう――泣きそうな顔で、耐えていた。

『えー、そうかなあー』

『ほら、幸奈は王子さまを待ってるんだろう? ――あんがい、この子かもしれないぞお? 幸奈が結婚する男の子っていうのは』



『うーん、わるいけど、それはない』



 難しい顔をして、しかしはっきりと――幼い南美川さんは言い切った。



『はは、困った、……だったら狩理くんはやっぱり人間になれないなあ』

 ひっ、と狩理くんが喉を引きつらせて、音が漏れた。

『ねえ、狩理くん、幸奈に気に入ってもらわないと……わかるよね? ――おじさんたちがさっき狩理くんに言った条件っていうのはね、そういうことだからね、条件って、難しいだろうけど、わかるかい? まあわからなかったら――べつの犯罪者の息子を探すまでだけど』

『お父さんお父さん、子ども相手だからって、あんまりお父さんとお母さんの計画を言っちゃだめだわあ、ふふっ』

『ああ、そうだなその通りだな、すまないお母さん、ははっ。……まあこれでわかるかなあ、この子なあ、どうだかなあ……』



『わか、――ります』



 いままでのなかで峰岸狩理はいちばん強気な張り詰めた声を出した。

 そして行動を開始する、もともと這いつくばっていた床に、こんどは両手をついて南美川さんを見上げる、――意思をもった瞳で。



『……ゆきな、ちゃん。お願いです。――ぼくとけっこんしてください』



 南美川さんはきょとんとしていた。

 南美川母はきゃあっと若い女の子のような声を出して両手を合わせた。


『おねがい。おねがいだよ。……ゆきなちゃんが、王子さまがほしいなら、ぼくがそれになる。

 ぼく、ゆきなちゃんの言うこと、なんでもきくよ? つごう、いいと思うよ?

 ねえだからおねがいだから――ぼくと、ぼくとけっこんしてくださいっ』


 南美川さんはニイと笑った――おそらくこのなかでたったひとりだけ、ほんとうの状況を、理解しないままで。


『ええー、なんでえ? ゆきなが、かわいいから、ほれちゃったの?』

『……そう、だよ、ゆきなちゃんすっごくかわいいもん』


 そう言うときの峰岸くんは悔しそうだった――わかる。峰岸くんほど心の成長が早かった男の子なら、このくらいのときにはもう、……女の子を真正面からかわいいと言うことには抵抗を覚えても仕方ないんだ。

 けれど、けれど、――賢いからそんなプライドもきっとかなぐり捨てている。


『ぼくはゆきなちゃんをおひめさまにしてあげる!』


 でかく、……出た。ああ、口説いている――自身が人間として生きる権利を得るために、弱冠、……五歳で。


『ゆきなちゃんをせかいいちかわいい、おひめさまだってことにしてあげる。

 だからおねがい――ぼくと、けっこんしてくださいっ!』


 南美川さんは目をしぱしぱとしばたかせて困惑していた――それはつまり、心がすでに揺らぎはじめている証拠だった。



 南美川父はニンマリと笑った。

『おやおや。……やっぱり、ずいぶん、たいそう、賢いねえ。ワンヒント段階でいってくれるとは……うん、いい遺伝子のキャリアかもなあ。ははっ!』

 笑い声が、――鋭く響く。

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