峰岸狩理(2)コンプレックス


「――やだあああ!」


 叫んだのは、僕ではなかった、……南美川さんだった。

 南美川さんは耳も尻尾もこれでもかというほどピンと強張らせて、逃げ出すかのように駆けだした、でも僕はリードを強く握る、だから南美川さんは、逃げられない、やだ、やだあ、と繰り返している、慰めたいけど、励ましたいけど、――どうしよう、僕もいっぱいいっぱいなんだ、



 スピーカー越しに声がした。


「……え。……幸奈?」



 それだけ言うと、ブツッ、と切れた。

 ……そしてすぐに、扉がガチャリと開いた。



 そこに、いたのは、……そのままそっくりおとなになった、峰岸くんだった。



 切れ長の目。全体的に涼やかな印象を与える顔面と、冷静さを感じさせる表情。

 当時のキレのままの、細いフレームの銀縁眼鏡。

 髪の毛が当時より少し短くなっている。その髪の長さは相変わらず絶妙だった。似合っているし、……格好いいのだろう。おそらく、学生らしさから社会人らしさへの移行として髪の長さも調整したのだ。

 峰岸くんは、オフホワイトとグレーを基調とした私服を着ていた。でもそれだってきっととても質の良いものなのだ。きっと、ブランドものかなにかなのだ。……僕はいちおうふだんめったに着ないスーツを着てきたけど、たぶん僕なんかのスーツよりもずっと峰岸くんのこのなんてことなさそうな私服のほうが、高級品のはずだ。そして峰岸くんの着るスーツというのはきっと僕の着ているスーツの十倍以上の値段がして、ブランドで、センスの良いものに決まってるんだ。

 だってほら腕時計もとんでもなく高級品なんだろうし。それに――その指に光る、指輪も。


 ……左手、薬指に光る、シルバーのさりげない指輪も。



 峰岸くんはあのときの峰岸くんのまま――順当に、おとなになったのだろうと思った。

 そうだよな、……僕は二年間も引きこもったから、まだ社会人一年めだけど、あのときの研究者志望クラスの高校のクラスメイトたちはあのまま順当にいっていれば――もう、研究者という相対的超上位の社会人として、……活躍中の、はずなんだ。

 社会評価ポイントだって、荒稼ぎして。――僕は二年間の引きこもりの負債を返していくのがせいいっぱいの、社会評価ポイントを……。



 そんな峰岸くんが身動きのとれない僕を、まっすぐそしておなじ高さの目線で見ていた。やけに、まじまじと。


「……あら? ……ちょっと待ってくださいね。俺は、御宅おたくを知っている」


 峰岸くんは扉から手を離し、背中でもたれるようにして支えた。額に手を当てて、うーんとうなる。―――その動作は芝居がかっていた。



「……え、っと。うーんとね。ああ。そう。そうです。知ってるんですよ。――高校のクラスメイトですよね?」


 僕は、……どうにか、絞り出す。


「……はい。えっと。来栖春くるすしゅんです、けど、覚えてますか……」

「ああ! あーっ、はいはい。覚えてる、覚えてますよ。そうそう、なんかそんなような名前だったなあ、うんうん」


 峰岸くんは目を閉じ、腕を組んでうんうんとうなずいた。またしても芝居がかってたけど、……相変わらず顔もいいからキマってる。

 そして、あろうことか、――僕に向けてにっこりと愛想よく笑った。視線がこっちに向いているし、状況的に、間違いなく――僕に向けての笑顔だよな、それは?



「あのときと違って、ちゃんと服なんか着てるもんだから、わかんなかったなあ」



 峰岸くんはにこやかなまま――言う。



「や、だって御宅あんときいつも裸だったじゃない、そういう趣味なのかなあって思ってたよ。いやあ、なんだあ、服もちゃんと着れるんじゃないですかあ、嫌だなあ、着れるなら高校のときから着てくれればよかったのに、人間は服を着るべきという常識を知ったうえで全裸になっていたということですよね?

 嫌だなあ、もう。ひとの悪い!」


 ……僕は、愕然としていた、

 峰岸くんが僕のことをどう思っていたかなんて聞くのははじめてだったのだ、あのときはたぶんそんな範疇にもなくて、認識されてもいなかったのかなと思っていた、


 でも――はじめて聞いたクラスメイトの学年主席の僕への評価は、……それだった。



「そんで? なんですか、えっと来栖くんだっけ、うん、覚えた覚えた覚えろ俺、脳の一時メモリを割くんだ、よし、おっけ、うん、……来栖くん。

 俺の勘違いじゃなけりゃ、幸奈を連れてるみたいだけど――?」


 ビクン、と大きく僕の右手まで揺れた。……見ると、南美川さんは、完全にまるまってしまっている。ひさしぶりに見たな――南美川さんの、こうやって、まあるくなっているところ――ほんとうにどうしようもないとき、南美川さんは、……こうするのだ。



 峰岸くんはふいにポンと手を叩いた。

 なんだか納得したかのような表情で――



「そっかあ、やっぱり来栖くんはあのあと変態になってしまったってことだね。

 や、だいじょぶだいじょぶ、あるあるそういうこと。自分をいじめた人間を妄想することによってしか自慰行為さえままならなくなってしまったんだろう? それで幸奈をなんらかの方法でどうにか手に入れた、と。へえ。すごいじゃないか。犬を飼うのも立派な社会性だよ? えらいえらい。お仕事もしてるってことだもんねえ。いや、えらいなあ。高校のときのことを考えればさ……。


 でもねえ、来栖くん。そういう相談だったら、俺がさあ、専門機関とか紹介してあげるから。

 ほんとね、だいじょぶだよ、安心して。――そういうのって俺なんかには理解しがたいけど、わりとある性のお悩みらしいからさ。というか俺にいちいち許可とか取らなくてもいくらでもお好きにヤッていいよ? ――もう幸奈の所有者は御宅なんだろう?」



 僕は、圧倒、されていた。

 ……しゃべってなくても、怖い人間だったけど。

 そうか、峰岸狩理がしゃべりはじめると――ここまでの圧をもつものなのか、しゃべりかたもそうだし、内容も――なんだ、これ、ぺらぺらと……。



 しかも、僕が最高に、……最悪に嫌だったのは、

 そうやってぺらぺらと言う内容があながち見当はずれでもなかったことだ――たしかに、僕は、……南美川さんをよく思い浮かべてしまっていた。



 そんなことを――言い当てられたくは、なかった。

 見透かされたく、なかった。



 いや。もっと正直に言うならば――僕のそんな気持ちは、この上位者からすればお見通しなんだって、そんなこと、認めたくもないんだ、――だってそんなのあまりに、あんまりじゃないか。


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