南美川さんの性能
翌朝、僕はアラームの音で目が覚めた。アラームを止めてスマホで時刻を見てみれば、いつもの起床時刻にしている八時。珍しく時間的余裕のある目覚めだった――目を開けて、部屋が既に明るいというのも久しぶりだった。
このごろはいつも、アラームの前に目が覚めていた。ケージのなかで南美川さんの立てる、なにかしらの音で。
南美川さんが不意に興奮してしまって、バタンバタンと檻のなかで暴れまわっている音。あるいは、唐突な絶叫。あるいは、「シュン、シューンー……」と、まるで犬がくんくんと鳴くように切なく僕を呼ぶ声。
……眠っていて気づかないうちはまだしも、そんな音に気がついてしまえば、僕だって起きないわけにはいかない。南美川さんが混乱してしまっているときには、ともかくずっと強く抱きしめてあげねばいけない。苦しまないように。自分を傷つけてしまわないように。これ以上、ひとの心をうしなってしまわないように。
泣いても泣いても南美川さんの眼からは涙が溢れ出てきていた。呻いて、叫んで、短すぎる四肢をばたばたと溺れてもがくように暴れさせて、ときに人の言葉で、ときに犬の鳴き声で、南美川さんの悲鳴が止まらない夜もあった。
僕はそういうときにとにかく南美川さんを全身で抱きしめていた。強く、強く。
正直――ここ三週間ほとんど毎日のことだったから、僕は慢性的な寝不足に悩まされるようになったけど。
……そういうわけだから、朝もまだ八時の明るい部屋のケージ、そのなかでブランケットを掻き抱いて、犬の四肢を投げ出してすやすやとおとなしく眠っている南美川さんを見るのは、とても、新鮮なことだった。
僕は立ち上がり、南美川さんをはるか上から見下ろした。……うん、やっぱり安心したように眠っている。
眼鏡は……顔の近くに投げ出されてしまっている。おそらく南美川さんが身体を横たえたときに、外れてしまったのだろう。まあ、それはもちろん、しょうがない。……南美川さんのいまの手足では、眼鏡を自分でかけるのは不可能だ。
僕はあえて声をかけなかった。
南美川さんも、起きる気配がない。
……僕はスリープモードになっていたノートパソコンを、両手で持ち上げた。
テーブルの定位置に戻して、スリープモードを解除する。ディスプレイは南美川が作業していたときのそのままのはず。南美川さんはいったいどんなお絵描きをしたんだろうって、軽い気持ちで楽しみに見たのだ――
僕は、ぽかんとあっけにとられてしまった。
……そこに映し出された描画が、あまりにもふつうに、ネイルのデザインだったからだ。
お絵描きってレベルはすでに超えていた――そう、きのう南美川さんとふたりで見ていたネイルの一覧表にあるような、……ふつうに、ふつうの、ネイルのデザイン。
人間の一般的、あるいは理想的な爪の形の図形が三つ並んでいて、いちばん左は赤と白を基調としたグラデーションのツヤのあるネイル、真ん中は淡いピンクで花柄の散らされたネイル、いちばん右だけは藍色に塗られて模様はなかった。
とても、簡易的だ。
……だけど、それらはふつうにネイルのデザインとなっていたのだ。ネイルのデザイン、とひとに言って、遜色がない程度に。
たったひと晩で。
眼鏡型ポインティングデバイスの使い方を覚え。
使いこなし。
おそらくは夜を徹して。
もう二年ほどずっと動物として暮らしていて、カルチャーにふれる機会も、ましてや自分でなにかをクリエイトする機会など、あったはずもなくて。それは、すくなくとも、パソコンの初期画面のニュースだけであんなにも尻尾をぶんぶんさせて喜ぶくらいのブランクで。
そもそも最新のパソコンにふれるのだって昨夜が初めてだったろうに。
デザインだって。資料がないのだから、すべて頭のなかだけで、いちからやったはずで。
……ふつうにネイルのデザインをするというのが、どれだけすごいことなのか。
さすがに、僕にもわかる。仮にもプログラマーというクリエイティブ産業の端くれの仕事をしているいまの僕なら、わかるんだ。
「……すごすぎるだろ……」
三つ並んだネイルデザイン。
商業的な水準の話は、僕にはわからないけれど。もしかしたら、それはまだ商業的な水準で売れるものでは、ないのかもしれない。
けど。けども。
それは逆に言えば、商業的なレベルで充分に話ができるレベルのものなんじゃないか? すくなくとも――素人目には、そのように思わせるほどの、それほどの、……高い、レベルのものではある。
あの幼児のらくがきみたいな段階から、ひと晩で、……これだ。
南美川さんほどのセンスを持たない僕には、きちんとしたことはわからないけども。でも、あともうちょっとブラッシュアップをすれば、インターネットで見たような、商業的に流通するネイル一覧表のページに載せられるくらいの出来栄えのものに、思えた。
……僕は、朝から、南美川さんほどではないであろう頭を、それでも必死に回している。
そして同時に、いま僕のペットとして暮らしている南美川さんが、やっぱり僕をあんなにも残酷に上から苛め抜いていた南美川さんであって、
南美川幸奈なのであって、
つまりやっぱり、とても性能の高い人間なんだってことを――画面を見つめながら、ひしひしとあらためて思い知らされて、いた。
「……うぅん。うーん。むー……」
南美川さんの寝言が聞こえてくる。……南美川さんはちゃんと眠れているときだと、甘えたようなヘンな声を出す、……かわいいんだけども。
さてはて、今朝は出社前に南美川さんを起こすべきか――僕は悩みつつも、ともかく出社の支度をせねばならないということで、よし、と自分で自分に声をかけて立ち上がった、……ノートパソコン、シャットダウン。
南美川さんのネイルデザインのファイルは、きっちりと保存しておいた。もちろん、バックアップも。
僕は出社の支度をいつも通りに淡々と滞りなく行う。
昨日、杉田先輩にあの住所のことを任せたのだった。一週間くらいはかかると言っていた。待つしかないのだけれど、やはり、気にはなる。
冬樹刹那さんが、僕に伝えたかったこと。なにか、わかるのだろうか。……わかるのだろう。……人犬を、僕みたいにひととしてではなく、完全に犬として扱っていたあの一家。
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