その赤色の意味

「……ねえ。来栖くん」



 冬樹さんは赤ら顔でやけにほがらかににっこりと、僕に笑いかけた。

 年上のおとなの赤ら顔は、そこまで頻繁に見たことはないけど、なんとなく、あんまり見ていて気持ちのいいものではない印象があった。それに、若い人間相手にそこまで酔っぱらうだなんて、なんだか旧時代的だし。

 けど――冬樹さんの酔っぱらった顔は、なんというか、僕がいままで見てきたどの酔っぱらいの顔とも、なんだか、違った。


 赤い、んだ。だからそうとうすごく酔っているのは、わかる。

 その赤さが清々しいとでもいえばいいのか――ほんのり染まるとかいうレベルじゃない、もうほんとうに、真っ赤で。……このひとはほんとうは人間ではなくもとは赤鬼かなにかだったんじゃないか? と、僕がそんな妄想的イメージを、とっさに抱いてしまうほどのもの、で。

 そして、赤鬼みたいな顔をしていながら――菩薩のように、笑ってる。

 菩薩のように、微笑みをたたえているんだ。――静かに。



 そしてそんな真っ赤な顔が暖炉の赤とまじわって、なんだろう、……眩しささえもちょっと感じるんだ――赤い眩しさ。なんだろう、それは。変な表現だよな――われながら。



 その顔のまま、コトン、と冬樹さんはグラスをテーブルに置いた。

 次の手酌は、おこなわれなかった。



「本音、言わせてくれ。いまだけだ。……来栖くんは若いころの僕ととってもよく似ている。そう、僕もあのときは――二十五歳だったんだよ」

「……冬樹さんと、僕が、似てる……ですか?」

「ああ」



 冬樹さんは赤ワインを――呷らない。



「……僕も、悩んださ。だってフィアンセだった。幼なじみでもあったし、友人でもあったし、恋人でもあったんだ。……そんなわけない、って、思ったさ。きっと、彼女はまだ、成熟してないだけなんだって。奔放なふるまいも……いい加減な、男関係も、人間関係も。人間は間違える。人間は間違えるんだからいくらだって再挑戦すればいいって――」

「……そう、ですよね、」

「だからそれは違ったんだ」


 赤鬼で菩薩の冬樹さんは、静かに、しかしぴしゃりと僕の言葉を遮った。


「……正しいのは、妻のほうだったよ。ああ。僕を諦めずに説得してくれたのは、最後まで、妻だった。騙されるな、……ほだされるな、って。自分たちがいかにアレに騙され――信者のごとく、扱われたかって、思い出して、思い出しなさい、って。……人間のかたちしてるからって惑わされないで、って」



 ぱちぱち。……ぱちぱち。



「……来栖くんには、きっと、そういうひとがいないんだな。僕には、妻がいた。だから僕はいま、幸福な人生を送っているよ……もうあんなただ新しいだけの窮屈な社会とは、おさらばして、自分たちだけの価値観で、子を育て、家庭をはぐくんでいる。そして、社会からはみ出ても追放はされないよう、ヒューマン・アニマル制度についての証言を繰り返している。幸せだ。僕たちは、幸せだ。……犬を飼うのもね、子どもの教育にはいいって、言うじゃないか。なあ、来栖くん。……人間に戻そうなんて幻想はほんとうに捨ててくれよ。それは、間違いなんだよ。そんなのは僕たち夫婦がこうやって立証しているだろう?」


 冬樹さんは笑い顔の皺を深めた。


「僕たちはね、ほんとうにアレを犬にしてしまって、よかった、よかったことばかりだよ――僕は幸せになったね!」


 その目までもが、

 赤く、潤んでた。……それは暖炉の炎が明るすぎるゆえの、錯覚だったろうか。




 暖炉の炎が、消えた。……冬樹さんが、消した。

 あっというまに部屋は暗闇のなかに沈み込む。……首都のように建物がないと、暗闇の密度までこうまで違うのだと僕ははじめて知った。


 ……長い長い夜が、終わり、

 冬樹さんは、僕には最後まで菩薩の笑顔を向け、挨拶もきちんとしてくれて、

 ……ふらふらと、二階に上がっていった。


 僕は、昼間は子どもたちの勉強スペースだった和室に布団を用意してもらっている。

 でも、その前に――もちろん。



 僕自身も飲まされすぎておぼつかない足どりで、

 ……それでも檻のある場所を見つけてしゃがみ込む――こん、こん、と叩いてみる。

 囁きかけるかのようにやっと呼べる――。



「……南美川、さん。ごめん。……お待たせ」



 目がすこしずつ、暗闇に慣れてきた。檻のなかではもぞりと動く気配がたしかにして――。

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