乾杯は泣き笑いを隠して

 奥さんは、語り終えた。

 その語り手としての役目を終えたかのように、なにも言わず、表情でも僕になにも語りかけてこなかった。

 そこにあるのは、――虚無だった。


 さきほどあんなにも、第一印象のおしとやかさとかけ離れて、――いまもそこにいる人犬の素材だという、姉のことを、大口開けて大声上げて、嘲笑って――なんだかそれでエネルギーがバチリと切れてしまったかの、ようだった。



 冬樹さん、――夫の冬樹刹那さんのほうが、まずは僕に笑顔を向けた。「むかしむかしの、おはなしでした」。冬樹さんはにこやかなままそう言うと、「ごめんね、来栖くん。もう妻は寝かせようと思います。ほんとはそんなに夜も強くないのですよ、はは」と続け、奥さんの肩に手を置き、促した。

 奥さんが冬樹さんを見上げる。そこにある表情は、哄笑でも虚無でもない、――ただの単なる悲しみだった。

 冬樹さんは小さく首を横に振ったあと、いちどだけ、励ますようにうなずいた。

 奥さんは涙を堪えたようだった。ふら、と立ち上がり、それでもかろうじて、僕に向けて――微笑みかける。


「……お先に、失礼します。どうぞ、主人とゆっくりおはなしして、らしてね」


 そう言い残すと、奥さんは、ふら、ふら、と二階に上がって、居間からは姿を消した。




 ぱちぱち、ぱちぱち、と暖炉の火が燃えている。

 やけに紅く、どこか怖く、その火は盛り上がっては盛り下がり、盛んな運動を繰り返している。



 冬樹刹那さんは、穏やかな笑みを口もとにたたえて、僕に語りかけてくる。



「どうでしたか。家内一級の、寓話は。……教訓なぞは読み取れましたか?」

「……はい。なんとなく、ですけど」

「はは、なんとなくでは困るなあ。せっかく遠路はるばる来たのだから、ちゃんと理解して帰ってもらいたいですね。そうそう、そのために僕たちは客人の宿泊を望むのですよ、いまどきそんなリスキーなことまでやって、ねえ……ああ、来栖くん。お酒は、飲めるかな?」

「……つきあい程度ですが」

「あはは、若者らしいな。じゃあ、僕がお酒の飲み方をすこし教えてあげよう。いまどきそういうのも都市部では厳しいんだろう、パワハラ監査も強くなったってねえ。まったく、やりづらい時代だ」


 冬樹さんは立ち上がると、キッチンからボトルを持ってきた。


「……赤ワイン、ですか」

「うん。飲める?」

「……僕、そんなに、強くないんで。ほどほどで……」

「はは、きょうくらいつきあってくださいよ」

「……はあ……」


 僕は、そっとうつむいた。テーブルの木目さえもなんだか生々しく僕の目に映る。

 お酒。テーブルや床との近すぎる距離感を、僕は知っている。

 お酒は、南美川さんたちがよく違法飲酒してたからなんて、そして僕のいじめにもアルコールというのはフル活用されていたなんて、……言えるわけもなく。


 いま、この居間にいるのは、大きな長方形テーブルの誕生日席に冬樹さん、角を挟んですぐ隣にあたるところに僕。

 そして――さきほどから動く気配がしないが、ケージのなかに、……ポチと、……南美川さん。

 ようすをうかがおうにも照明が絶妙に落とされているし、長方形のテーブルの下座のもっと向こうに檻が置かれている。目視では檻のなかを確認できない状態だった。

 ……なんだか冬樹さん夫妻の前で南美川さんと、ふつうに――つまり互いに人間としてってことだけど、そう扱うのは、……怖いような気がして、僕は南美川さんのようすを確かめられずじまいだった。



 海の底みたいに青くて、暖炉の炎がばちばちばちと赤い。

 木々のぬくもり、アンティークな壁掛けの装飾、……子どもたちが描いたらしいイラストや粘度の工作。


 赤ワインが、コポコポと注がれる。

 僕の前でコポコポコポと注がれる。


「……あ、あの、冬樹さんにも、つぎます」

「ああ、いい、いいんですよ僕には。来栖くんのほうがお客さんなんでしょ。……っと、はい、注いだ。そんじゃ乾杯しましょ」

「……あ、……はい」


 乾杯――僕のトラウマをえぐる言葉だ。それも。……そんな言葉さえも。



 南美川さんが金色のツインテールを揺らして「かんぱーい」と高らかに盃を上げ宣言するその背中を、僕はいまでも鮮明に覚えている。

 なぜその記憶が背中かって、……だいたいそういうときには僕は、輪の外でたいてい縄やガムテープで拘束されて自由を奪われて、ガクガクと、……それからまたしてもはじまる酒池肉林の地獄を想像して、――その場でたったひとりだけ盃をもたない自分自身が、こんなにも動けなくされている自分自身が、痛いのに、飲みたくないのに、気持ちが悪いのに――そのあとさんざんアルコールというほんらい単なる化学成分にさえも、苦しむ、もだえ苦しむ、……拘束されながらして酒を頭からバシャンとかけまくられることの、恐怖と言っても足りないやるせなさを、全身で、感じていて、……だから南美川さんのその宴の開始の瞬間というのはほんとうによく覚えている。



「乾杯」



 僕の目の前にいる、僕を人間として扱うおとなの男性は、いたずらっぽく微笑んでスマートにグラスを上げた。

 僕を人間として扱い、……南美川さんを、犬として扱う――扱えと、僕にきっとそう言いたい、ひと、……家庭をもち、社会評価点の高い年上の男性。


 僕もグラスを持ち上げて、……せいいっぱいに演じてみせた。



「乾杯」



 僕のこの顔は――すこしでも、泣き笑いでなくなっているだろうか。……だってあのときはずっと泣き笑いをしていた。逆らうことも、従いきることも、……できなくって。

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