あまりにも中途半端な表情

 冬樹さんのフィアンセだったという雌の人犬――ポチと、僕は、一回だけ、目が合った。



 夕飯どきだった。客人である僕やこの家の主人である冬樹さんはもちろん、奥さんや子どもたちも食事をはじめて場がなごやかにあたたまってきていた。

 ポチ……さんも、南美川さんも、エサをもらえていない。南美川さんがいじらしく僕を目で追っているのが、わかった。僕はワインに酔いはじめた冬樹さんのかなり突っ込んでくるセクハラまがいの冗談をかわしながら、どうしよう、さあどうやって南美川さんにごはんをあげようか、ということばかり思案していた。……南美川さんは飢えることにもものすごく恐怖があると、僕は知っている。


 ちょうど、そんなときだった。姉妹が、立ち上がった。


「ねえ、パパ、ママ。ポチと、お客さんのワンちゃんに、エサをあげるね!」

「おお。頼むぞお」


 長女は八歳、次女は五歳だそうだ。手をつないでいる。たいそう、仲がよいのだそうだ。……それはこの短い時間をともにしただけの僕にでも、わかる。こういうのには見覚えがある――僕の姉さんと妹も、こんな感じで仲がよかったから。三人きょうだいだったのに、僕そっちのけで。

 ……こういう姉妹にはきっと無邪気な残酷さがあるのだ。姉と妹を思い出すと、そう思わざるをえない。



 南美川さん……だいじょうぶだろうか。

 姉妹がなにか南美川さんにつらい思いをさせなければいいけど――。



 檻を開け放つことは、しなかった。どうも檻のなかで食事もさせているらしい。

 ……檻のなかの床は、汚れでべたべたになっていた。檻の外はきれいに掃除されているのに、……その外と中じゃ、ほんとうに別世界だ。

 姉妹の子どもが「待て」をさせて、子どもらしい無邪気な残酷さをもってして、じらす。

 フェイントもあった。よー、とふたりで顔を見合わせて、よーっ、と声を伸ばして、し――とまでは言ってあげないのだ、まだだよーって馬鹿にしたようにけらけら笑う。

 南美川さんの耳がぺたりと悲しそうに降下していく――。



「あ、あの。なみか……な、ナミちゃんには、僕がエサをあげます。なかなか人見知りだから、慣れないと食べないかもって、あはは」



 僕は家族への言いわけとして、困ったような仕草で頭を掻きながら、檻の前に立った。こちらを見上げる姉妹にも、不審人物と思われないようにっこりと僕はどうにか限界の笑顔をつくる。

 そして、南美川さんに「ほーらほらほらごはんだよー、食べたいねー、食べたいよねー、じゃあまてね、それで、うん、よしっ」と語りかけた。まるでほんとうに犬にそうするみたいに、がんばった、……演技したのだ。



 ……じっさいには、目と目で、会話した。あと、若干手の動き。

 いまは我慢して、って。お願いね、って。いい子でいてね、って――。




 そのとき、だったのだ。

 ……ポチがこちらを見ていた。





 ペットショップで南美川さんを見たときの、あの苛烈な絶望の目とも違う。

 ただ目を見開いて――その目はなんの感情も感じられないただの球体のようで――それでいて、その両目からはまるで水道の栓でもし忘れたみたいに、だばだばだばだばと涙があふれてはこぼれあふれてはこぼれ続けて、いた。



 ……それは、とても、不自然だった。

 犬のしていい表情ではない。かといって、人間というには足りない。



 あまりにも――あまりにも中途半端で。





「……ええ。そういうことですよ」



 夕食後、子どもたちも寝静まった、日づけの変わる直前の時間――。

 レトロなアンティークの壁掛けのアナログ時計が、ちく、たく、ちく、たく、と時を刻んでいる。


 さきほどと異なる静謐な空気。照明も、抑えめで。

 なにもかもが、青く、いや、海底に沈んで染まってしまったかのような、リビングルーム。



 夫婦は子どもたちの前にいたときとは違って般若の顔をしていた。



「……来栖くんが犬を思いやるのを見て、嫉妬したんだ。どこまでもあさましい犬め。この期に及んで人の心があったか」

「ねえ、あなた。心配ね。早く、完全に、心まで犬に加工してしまわないと……」



 気がつけば僕の口は開いて、その言葉を反復していた。



「――心まで犬に加工してしまわないと?」

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